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2005/01/20

「開発援助」とは何か

伊勢崎賢治『NGOとは何か:現場の声』藤原書店、1997年

NGOとは何か―現場からの声NGOとは何か―現場からの声
伊勢崎 賢治

by G-Tools

筆者は、大学院で都市計画を専攻・修了後、インドのボンベイ大学大学院に在学中に市民運動に関与し、帰国後NGOに就職。シエラ・レオーネ、ケニア、エチオピア、それぞれの現地での活動経験が、執筆の材料となっている。本書はNGO関係者にしか知り得ない「実情」と「病理」、そして「処方箋」が詳細に記載されており、要約すると以下のようなものである。

・「開発援助」は、南北の経済格差を前提した一つの「産業」であること。すなわち、「……NGO業界というのは、「北」の資本主義経済の、「善意」を見せかけたわずかな「泡銭」を吸い上げて、「南」における、政府間援助(ODA)が扱うより、ちょっと「下の層(私達は気取って「草の根」という)」に落とす。ただこれだけのものに過ぎない……」(p.220)。

「開発援助」は「ボランティア」でも「慈善事業」でもないこと。職業倫理がなくアマチュア感覚の抜けきれないボランティアNGOも、一人の献身的な「英雄」も共に現地では必要とされていないこと。特に後者は、組織のクライシス・マネジメントの面においては、ときに有害でさえあること。

・開発援助で必要なのは先進国の「技術者」や「学者」ではなく、人事・庶務・財政・外交を含む広範囲なマネジメントの能力を有する「経営者」が必要であること。現地にも「専門家」はそろっており、その有効な活用と、現地政府との協力をおこなう「経営」的センスを有する人材こそが必要であること。

・技術者・専門家を含めて、先進国からボランティア派遣される人材は、現地でも十分に調達可能であること。マネジメントの見地、サスティリナビリティの見地からは、その方が有益であること。「途上国に人材が不足している」という情報は、先進国(とりわけ政府・知識人・メディア)「驕慢」であること。つまり、「経済的に援助してやってるのだから、知的にもこちらが優勢でなければならない」という傲慢な発想が、こうしたボランティアの派遣制度を支えているとしか思えない」(p.50)こと。

・「NGO」といっても、布教目的の宗教団体・政治結社・開発ペテン師等が母体となっているものも存在するため、手放しに甘やかすのは問題であること。その際に判断の指標となるのは、non-religious(非宗教主義)・non-political(非政党主義)・non-profitable(非利益主義)であり、これらをスクリーニング(審査)する必要があること。そうした「胡散臭い」と「まともな」NGOを区分し組織化するためにも、現地政府は、これらNGOを管理する必要があり、NGO側も効率よく管理される必要があること

・問題は、貧困問題や医療問題に取り組む「システム」が現地でうまく機能していないことであり、その「システム」をサポートするために開発援助が存在すること。

具体的には、現地の末端の医療員(産婆・衛生指導員)の「増加」と「強化」が必要とされること。「増加」は現地政府と連携した養成プログラムの充実、「強化」は労働意欲を確保するための適切な給料の支給と、技術向上の指導によって行われること。またこれら末端の医療員が軽度の抗生物質を扱えるように、現地政府に働きかけること(ロビーイング)。そしてこれらを維持するために、適正な料金を設定し、この「システム」が(少なくとも部分的にも)持続可能なものとすること。

・巷に言われる「エンパワーメント(権限委譲)」がしばしば傲慢であること。つまり、現地の住人に向かって「自分たちには自立が必要だと考えはじめたという」(天声人語:1994年4月13日)と言い切るのは、傲慢以外のなにものでもないこと。

むしろ重要なのはより効率的な「エンパワーメント」を行うことであること。それは具体的には、現地スタッフを積極的に登用・スキルアップさせることであり、そのためには援助団体自体の経営効率化が必要であること。しかしながら、(「研究者と官僚の集団」である国連組織は当然として)援助団体の多くは、不要な外国人管理職を置き、現地人スタッフの「昇格」をあまり考えていないこと。

「外国人がいた多くいた方が、中立で公正な活動ができる」「スタッフを多く雇えば、それだけきめ細かい援助ができる」「専門家や研究者を多く雇えば、それだけ理論的で質の高い援助ができる」とういのは、迷信であること。現地官僚のみならず外国人でも住民でも汚職は行う可能性があること。重要なのは、「プロフェッショナルな信用」すなわち「管理された全権的な信用」であり、そうした汚職もある程度のコストと見越して、援助という「投資」を行う必要があること。その場合、「投資」に対する報告責任(=アカウンタビリティ)の確保がその質を支えるものであること。

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・「NGOの連帯が世界を救う」的な幻想がすでに終焉しつつある中で、いかにして有益な開発援助を行うかについて、現場の視線から提言したものとして特筆すべきものである。「NGOはサービス産業」と言い切り、その「サービスの充実のためのマネジメントとアカウンタビリティが必要である」とする著者の姿勢に、私は基本的に共感する。

著書は現在のNGO業界やボランティアの実情を辛辣に批判しているが、こうした批判は少々過大に論じられるとしても、それでも私の想像していたものよりもはるかに深刻なものであった。こうした「業界」自体の問題と、それを取り巻く諸状況――汚職にまみれた現地政府、頭の堅い現地官僚、情動に流されやすく反権力を気取るメディア、「こすっからい」現地住民 etc.――に立ち向かいながら、いかにして「理想」(著者風に言えば、「サービス」の品質確保)を失わずにいられるかは、著者のみならず再考すべき課題であろう。

・理論研究を行う人間は、しばしばこうした著者の言動を「現場主義」の物言いと言うかもしれない。また「開発援助」を「サーヴィス産業」と言い切る姿勢も物議を醸し出すであろうことは容易に想像できる。しかし、この著者はそうした反発をある程度覚悟しつつも、実情への憂慮から、敢えて挑発的な議論を展開しているのだろう。そうした「勇気」に私は感嘆せざるを得ない。

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