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2005/02/24

政治における「腐敗」と「偶然性」(2)

 この作品は言うまでもなく第一にエンターテイメントであり、政治・経済・社会システムに対する学術的な分析が行われているわけではないので、自由市場経済システムや民主主義政治システムの代替案として、こうした「くじ」と「暗殺」に基づく政治システムが提示されているわけではない。著者ディックもそうしたことを意図しているわけではないのだろう。こうした社会描写から、著者の時代に対する痛烈な批判を読みとることもできるが、ここでは問題としない。ここで注目したいのは、 「政治」という営為のゲーム性――複数のプレイヤー(アクター)の存在、価値目標の設定、ルールの適用と改変――である。つまり、 「贈収賄」という行為も、道徳的・倫理的な判断を別にすれば、政治というゲームにおける一つの戦略であって、いかに効率よく価値目標を獲得するかという選択肢の一つにすぎない。そうした戦略が意味を喪失しているのがディックの描く空想世界なのである。政治権力が固定化され、将来における権力の配置が予想可能であれば、権力者に対する贈賄は先行投資として見なすこともできよう。また権力という不可視で形のないものが金銭や奢侈品で買うことができるならば、そうした選択を行うプレイヤーも存在するだろう。しかしながら、権力の状況が「偶然性」に左右され、それを予測するのが不可能な場合には、先行投資も官職の売買も行えないのである。

 

作品中には何度かゲーム理論のタームが登場するが、その中でもフォン・ノイマンの「ミニ・マックス戦略」(最大の損失を最小限にする戦略)が有効な公理として提示されている。ノイマンの「ミニ・マックス戦略」は、チェスなどの一対一のゲームを想定したもので、複数のプレイヤーによるゲームをモデルとしたものではないのだが、ディックの未来社会では、この戦略が実際的に有効性を発揮するような社会的状況が描かれている。すなわち個々人を単位としてゲームが行われ、各個人が相互に敵対しているために、競争相手の自滅を待つという戦略が最も有効とされているのである。ディックの社会は基本的には細分化された階級社会ではあるが、その階級移動のチャンスとなるのは「クイズ」であり、この「クイズ」に答えられるかどうかが階級上昇の鍵となっている(そしてこの「クイズ」を考案・出題する権限を唯一有しているのが「クイズマスター」と呼ばれる最高権力者である)。よりよき生活を手に入れるためには、クイズに正解せねばならないのだが、失敗して脱落するというリスクを冒すよりは、同じ階級の者が自滅し潰し合うのを「待つ」方が有効なのである。

 最高権力者を抽選によって決定するというのはむろん空想世界の話ではあるが、この「くじ」や「偶然性」に関わる事柄は現実の政治・社会制度と無縁ではない。古代ギリシアでは、将軍職などの資格審査が必要なもの以外のポリスの役職は各部族からの抽選によって決定されていた(アリストテレス『アテナイ人の国制』村川堅太郎訳,1992年.第43章-第55章参照)。また今日においても陪審員制度を採用する国々では、まったくのランダムではないにせよ、陪審員選出に当たっては厳格な抽選が行われている。また「純粋な」宝くじからの収入が公共事業や公的組織の運営資金とされているのは、古今東西変わりはない。「偶然性」に依拠した「くじ」が備えるメリットは、前述したように、権力者の選抜が予測不可であるために腐敗が発生しにくいことの他に、「平等性」が確保されるという点がある。つまり財産や家系、さまざまな諸能力に関わりなく、その社会を構成している人間であれば誰でも社会的決定に関わる事柄に影響を行使できるし、一攫千金を獲得することが可能なのである。生まれた家庭環境、あるいは容姿や体格、性格や能力など、人間誕生における諸条件――言い換えれば人生というゲームの初期設定――の「偶然性」に対して、くじの「偶然性」は、その是非はともかくとして、誰に対しても平等にチャンスを提供するのである。

 政治という営為は人間事象や自然事象における「不確実性」にどのように対処するかという試みに基づいて行われてきた。そして今日のわれわれが生きる社会も「偶然性」から免れられない以上、政治というゲームは存続している。しかしながら、このゲームの「必勝法」となる戦略は存在しないし、ゲームのルールや賭けの対象、あるいは勝利の定義自体も変転してきたし、現在も目まぐるしく変化している。こうした観点からすると、われわれが現在政治制度として採用している「民主主義」――代議制と政党制に依拠した民主制――も、当然ながらゲームの一様式にほかならない。すなわち、暴力ではなく言論を手段として、「私」あるいは「われわれ」――企業、組合、地方、国、etc――の利害を代表する人間を組織し、議席という限定された権力リソースへより多く代表者を送り込み、「私」あるいは「われわれ」に有利な政策(財の分配やルールの改変)を実現させる。議席の獲得はあくまで「数」によって判定できる指標であり、ゲームを有利に行う一条件ではあっても、究極的な勝利条件ではない。「私」もしくは「われわれ」が望む方向へゲームが展開するかどうかが勝敗を判断する基準であり、従ってその判断も極めて主観的で曖昧なものと言える。

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