「声を聴くこと」は「正義」たりうるか?
大川正彦『正義:思考のフロンティア』岩波書店、1999年 の書評
著者は1965年生まれ、現在、東京外国語大学助教授。
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現代政治における正義論、倫理論を考察する際に参照。以下、その要約とコメント
(1)正義の問題を考えるにあたっては、「再分配の政治」か「承認の政治」かという二者択一的な問題設定は、(たとえそれがN・フレイザー流に分析的なものであるとしても)有効であるとは言えないこと。
(2)むしろ問題とすべきなのは――ジュディス・シュクラー『恐怖の自由主義』で語られるような―― 「共通悪」としての「残酷さ」に他ならないこと、この「残酷さ」とは、「より強い者あるいは集団が、有形無形の何らかの目的を得るために、より弱い者あるいは集団に対して、身体的な苦痛を、二次的には感情面での苦痛を故意に与えること」であること
(3)この「残酷さ」は、公権力者による圧政・弾圧での拷問という形態を典型とするが、それらは――モンティーニュが示すように―― 人々の日常生活にも多々存在しており、それらこそが今日問い直さねばならないこと。
(4)そうした「残酷さ」の問い直しの際に留意すべきなのは、「正義」概念モデルの再考ではなく「不正義」の感覚の共有であること。つまり、被害当事者の「還元不可能な主観的要素」を排除するこれまでの「正義の通常モデルに従った思考法」を懐疑し、「不正」と「不運」とを恣意的に線引きする法的な正義感覚に異議申し立てを行わねばならないこと。
(5)こうした「不正義」感覚の共有し、不正義を告発する声に耳を傾ける際に重要なのは、被害当事者が声を上げることすらできない場合もあるということ。それは、 (5-1)自己を不運であると規定、あるいは声をあげることが二次的苦難をもたらす場合、 (5-2)犠牲者自身がもはや物理的にすでにいない場合、があること
(6)「残酷さ」の回避も、「不正義」の共有も、個々人が「よく生きる」ための諸前提であるが、この「よく生きる」ことを政治的に言語化しようとすると、――M・イグナティエフ『ニーズ・オブ・ストレンジャー』が語るように―― 「権利 right」による言語と「ニード need」による言語とがしばしば乖離する場合があること(社会的に「必要」とされるものが、「権利」に翻訳された場合に、「必要」とズレる場合が多々あること)
(7)この「権利/ニーズ」という問題に対しては、2つの応答のかたちがあること
(7-1)ジェレミー・ウォールドロン的回答……福祉国家を論ずる際の「慈善」イメージの変更の提案
慈善する者=能動、 受ける者=受動 というイメージから、「受動的な差し控えとしての慈善というモデル」へ
(7-2)マーサ・ミノウ的回答……「権利」のレトリックの刷新
「権利」の主張≠コンフリクトではなく、それを既存のコンフリクトに公的な表現を与え・公的な解決を与える言葉へ
(8)自己と他者との〈あいだ〉の毀れやすさを踏まえつつ、こうした「残酷さ」「不正義」について他者の声に耳を傾けること、それは「知る=領る」という形での支配ではなく、――ジェームズ・ボイド・ホワイトの語るように――「翻訳としての正義」という態度であること。つまり、それは、「不可能なものに直面する技法、さまざなテクスト、さまざまな言語、さまざまな人々のあいだの架橋しがたい非連続と向き合う技法」にほかならないこと。
【以下コメント】
・著者の文章は複雑で難解らしいという話を聞いたが、この本に限ってはそういうことはなく、論旨も明瞭であった(と思う)。
・マテリアルな価値をめぐる「再分配の政治」か、アイデンティティをめぐる「承認の政治」かという区分法、あるいは個人の「権利」に立脚するリベラルか、共同体の「徳」の再興を説くコミュニタリアンかという、不毛な論争と著者が一線を画そうとしている姿勢には共感する。
・積極的な「自由」の肯定ではなく「残酷さ」の回避、「正義」の論証ではなく「不正義」の共有というネガティヴ・アプローチ自体は小生も同意するところが多い。しかしながら、その帰結が果たして、イグナティエフ等の議論と整合的に結びつくものなのかは良く分からない。「残酷さ」の回避は、リチャード・ローティら現代リベラリズムの議論にもキー・タームとして登場するだけでなく、ヒューム等の伝統的な保守系の自由論の中で繰り返し登場するが、それとの相違というのがあまり明確ではないように思える。
・おそらく、著者が依拠するシュクラーの「残酷さ」の議論は、モンティーニュ解釈が下敷きになっていると予想されるが、モンティーニュ『エセー』のどちらかと言えば「アリストクラシー」的な話が、「デモクラシー」的な正義論に果たして翻訳されうるのか、という疑問を感じた。
・こうした「声を聴くこと」系の議論は――この同じ思考フロンティアシリーズの『公共性』『記憶/物語』でも見受けられるが――やはり最後まで共感できなかった(この辺は「趣味」の問題かもしれない)。
・小生が思うに、この手の話の一番の問題は、 「声のエコノミー」の問題である。
著者が語るように、(現前されざる者も含めた)「他者の声」に、絶えず耳を傾け続けることは、果たして履行可能な企てであろうか。個々人が対応できる「声」には物理的限界がある以上、多かれ少なかれ、「声」の優先順位の判断・取捨選択(=エコノミー)を行わざるを得ない。そのエコノミー自体は、言うまでもなく各人千差万別であり、「これこそあなたが聴くべき声だ」とするのは、押しつけがましくはないだろうか(「テロリズム」というのがそうした「声」の亜種であることは言うまでもない)。またその「他者」の声を「聴く」というスタンス自体が、存在しない「声」を「幻聴」として生み出すということはないだろか。
・むろん、この「声のエコノミー」自体が、メディア等によって作られた恣意的なものだと告発することは可能である。しかしそうした告発を行っても、「エコノミー」それ自体が消滅させることはできないだろう。
・そうした点を踏まえつつ、「他者の声」に耳を傾けつつ「声のエコノミー」が再編されるチャンスというものがもし有りうるならば、それは、それまで自己に全く無縁と思われた「他者の声」が、個々人の「生」を構成し、新たな意味を再解釈するものとして立ち顕れる(あるいはそう錯覚させる)瞬間に他ならない、と小生は思う。そのために戦略として必要なのは、政治的演出であり、レトリックであると思うのだが、それはまた別の話である。
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