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2005/05/27

「自由」は売買可能か? (1)

  Murray Rothbard , The Ethics of Liberty, New York University Press, 1998.
=森村進・森村たまき・鳥澤円(訳)『自由の倫理学:リバタリアニズムの理論体系』勁草書房 
 の要約と批評

自由の倫理学―リバタリアニズムの理論体系自由の倫理学―リバタリアニズムの理論体系
Murray Newton Rothbard 森村 進 鳥沢 円

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 著者ロスバードは、1926年ニューヨーク生。オーストリア学派の経済学者ミーゼスに師事し、オーストリア学派の経済理論を展開させていく一方で、リバタリアニズムの思想を構築させ、60年代~70年代の社会運動に自らも関与し、理論と実践の融合を独自に計る。1995年没。

 【リバタリアニズムの「自然権」「法理論」についての要約:第2章~第8章】とその問題

・「法的原理」には3つの異なる原理があること、つまり、(a)部族あるいは共同体の伝統的慣習に従うことによってか、(b)国家機関を支配する人々の、恣意的でその場限りの意志に従うことによってか、(c)自然法の発見に人間理性を用いることによってか」(p19)であり、リバタリアンの法は(c)を根拠としていること、そしてこの「理性」から導出される「自然法」のみが「客観的」で「科学的」な倫理に基礎づけられていること

・従って、「コモン・ロー」という慣習や、「立法府の表明する多数意志(=実定法)」を無批判に採択する他のリバタリアンへの批判が行われなければならないこと

・こうしたリバタリアン的な自然法による「法」の基礎付けは、「クルーソー状況」理論仮説として想定すれば明らかになること、つまり
  (1)自己の意識と自己の身体を自覚した者(=クルーソー)が、
  (2)無主の土地(資源・自然環境)を発見し、
  (3)自己の労働力によって、自然物を変形させ、土地から生産物を獲得する
というプロセスが、「土地」とそこから獲得された「作物」に対する「所有権」を正当化するものであること。

・従ってこの段階で「土地」の「所有権」は、クルーソーが自らの労力を投入した範囲に限定され、到着した「島全体」にまで及ぶものではないこと

・「獲得」した自己の所有物(例えば魚)は、正当な「交換」によって他者(=フライディ)の所有物(例えば小麦)と取引が行えること、そして生産活動の「専門化」と「交換」によって、両者が互いに獲得する財は、自己が独自に両方を生産・獲得するよりも、大きなものとなること(リカードの「比較優位の法則」)

・こうした「交換」は、以上のような原始的な水平的なものに留まらず、労働サービスを提供する「労働者」に対して賃金を支払う「資本家」との垂直的過程においても正当なものであること。つまり、Aから財(a)を購入し、Bに配送するサービスを行う資本家Cがいるとして、そのCが労働者Xを雇って働かせる場合:
 労働者Xが自ら仕事を請負うこともできるが、それを行わないのは、
(1)Aから財(a)を購入する資金を調達し、投入する労力を回避できること
(2)売却-貨幣の調達というプロセス以前に、「賃金」という形で貨幣を獲得できること
(3)財(a)が売れ残る、又は損害を受けるといリスクを回避できること
 というデメリットがあるからであり、そうした労働者Xのリスクを資本家Cが負っていること

・労働サービスは譲渡可能であるが、「意志」それ自体は譲渡不可能であること、それゆえ、自らを奴隷とする奴隷契約は、将来の「意志」を売買するものであるため、認められないこと

・こうした自然的な「所有権」と適正な「交換」に基礎づけられた「自由な倫理」こそあらゆる社会に適用可能なものであり、「倫理的自然法は物理的、あるいは「科学的」自然法と並ぶ位置を得る」のであり、これによって裏付けられた自由社会こそ、「時空を問わず各人に同一の基本ルールを適用し得る唯一の社会である」(p.51)こと。

 【コメント】
「リバタリアニズム」libertarianism(個人主義的権利からリベラリズムよりも自由の拡張を主張する思想的立場)の功績は、その思考のラディカルさにあり、本書『自由の倫理学』も既成の社会秩序を構成する観念や方法論に対して、様々な問題を提起している点は疑いない。
 例えば、倫理的な「価値中立」を自称する法実証主義が、倫理的判断を回避するというだけでなく、その保守性など多くの点で暗黙的に「価値」を内包しているという指摘は妥当であると思う。しかしながら、この「自然法」的な形での、「法」の基礎づけの問題に限ってみても、多くの問題点を見いだすことができる。

 (a)「観念」と「言語」の問題、「権利」は「学習」可能か? 
 ロスバードは「クルーソー的状況」というアナクロニズムを敢えておこなうことで、「自然権」的な「所有権」の基礎付けを試みているが、果たしてそれはどこまで成功しているか。

 真っ向から対立する(であろう)「コミュニタリアニズム」から、「「意志」「理性」「所有」という観念それ自体のが「社会」的負荷性がある」という批判を、まずは認めることができるだろう。ロスバードのクルーソー仮説には、多くの「社会性」が前もって導入・隠蔽さている。例えば、 土地について「個人的所有」という観念のない社会はいくらでもあるし、「自由意志」という観念にも歴史性・文化性がある。

なるほど、「理性」「自然法」という観念を持たない者でも、ロスバードの言うクルーソーは、「彼は弓から解き放たれた矢は鹿を倒す力があることを、そして網を使って大量の魚を捕らえられることを学習する」かもしれない。しかし、そうした物理的な因果性と同じような形で、「所有」を観念的に「権利」として措定し、時空を超越した「客観的-科学的な倫理」とするには、かなりの断絶がある。

 (b) 「交換」と「貨幣」の問題
 しかしロスバードの理論的立場を「非歴史的-方法論的個人主義」とし、(a)のような批判を一度括弧にいれたとしても、なお問題は残る。
 例えば、ここでは「貨幣」による「所得権」の「交換」の生成過程がかなり不明瞭である。
 ここでロスバードは、
(1)Aが土地から財a魚を獲得し所有する
(2)Bが土地から財b小麦を生産し所有する
(3)Cが土地から金を加工し所有し、Aの財a魚と交換する
(4)Aは、金を交換手段(=貨幣)として、Bの財b小麦と交換する
 というプロセスが記述されている(p.44)

しかしながら、こうしたプロセスが、「貨幣商品説」(貨幣=魅力的な財とする考え)の立場からかなり粗雑な議論であることは否定できない。 同じ「労働価値」から「貨幣」の生成それ自体に「驚き」の目を向けたマルクス(あるいはその議論を展開させた今村仁司や岩井克人)以降の貨幣論の議論を見ると、杜撰である。

 この「貨幣」の扱いの問題は、「適正な交換レートとは何か」という問題に直結している。
 財a魚と、財b小麦が、どのぐらいで「適正に」交換されるのか、またAとBとが面識のない状態で、果たして「平和に」交換され得るのか、という問題(=交換正義の問題)は考慮されていない。

 (c)「自然法」と「社会」との距離
 ロスバードは、ロックのように「自然法」から「社会契約」という過程を取らずに、直接「社会」が導出できるものとして設定しているが、果たしてそれは妥当だろうか。

このロスバードのクルーソー理論仮説では、フライディはクルーソーと財を適正に交換する取引相手としてしか記述されていないが、しかしながら、原作『ロビンソン・クルーソー』でのフライディは、主人公クルーソーとはるかに複雑な関係にある(岩波文庫版 pp.275--)。

 彼は、人喰人種でありながら、対立する他の蛮族に破れて捕虜とされ、「喰われてしまう」直前にクルーソーに命を救われることで、献身的な従僕となる。クルーソーは、彼に人喰の習慣をやめさせ、言語を習得させ、キリスト教の信仰を説いて「改心」させていく。つまり、フライディは、(潜在的な)「敵」であり「友」であり「従者」である。こうした複雑なコンテクストがロスバードの文脈では意図的に捨象され、単なる「自然法」に目覚めた取引相手としてしか措定されておらず、「ホッブス問題」のようなややこしい問題は、最初から圏外となっている。

 (続)

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