「自由」は売買可能か?(2)
M.ロスバード『自由の倫理学:リバタリアニズムの理論体系』の批評の続き
【リバタリアニズムの「法理論」についての要約:第8章~第13章】
・「所有権」は「正統な正しいな財産」にのみ認められるものであること。それは、(1)無主物・無主の土地の占有、(2)自己の労力によって自然物を加工したもの、(3)(1)又は(2)の財を、その所有者から随意的に交換・贈与をしたもの、に限られること
・それゆえ盗みなどの犯罪よって獲得された財は、その正統な所有者に直ちに返還されねばならず、犯罪者には「所有権」が存在しないこと。
・仮に盗みなどの「犯罪」によって獲得されたと認知されている財で、
(a)被害者orその相続人が明確である場合
(b)現在の所有者がその財を盗んだ当人である場合
①(a)が確認できる場合には、その元来の所有者・相続人にただちに返還されねばならない
②(a)が確認できず、(b)が確認できる場合には、当該の財は犯罪者から没収され、「無主」の状態としてその所有権は最初に「入植する」(発見・使用)する者に帰属すること
③(a)も(b)も確認できない場合には、②の派生として現在の専有者に所有権が帰属すること
・この自己が正当に所有する財産に対して権利を有するならば、その財産を保持するために、「暴力的な侵害」に対して「暴力的な防衛」を行う権利をも有すること
・防衛的な暴力は、自己の人身と所有財産への「直接的で・急迫で・比例的」なものに限定されること
それゆえ
①ボイコットを組織することは正当な権利だが、それに対抗する暴力の行使は不当であること
②「アルコールは犯罪を犯す確率を高める」という主張のために、禁酒を社会に強制するのは不当であること
③風船ガムを盗んだ者を殺すことは、暴力行使が比例性を欠いているので不当であること
④「暴動を扇動すること」は、直接の暴力行使者の行為を決定するものではないため違法ではないが、「暴動を組織し命令すること」は直接的に荷担しているため違法であること
・法的紛争の主体となるのは「当事者」同士であって、「社会的な犯罪」というのは存在しないこと。「すでに述べたように、リバタリアンな社会では法的紛争や訴訟には二人の当事者しかいない。被害者あるいは原告と、犯罪者と言われる者あるいは被告である。法定で不法行為者を起訴するのは原告である。リバタリアンな社会では、間違って定義された「社会」に対する犯罪は存在しない」(p.100)こと。
・それゆえ「殺人刑」は、「殺人罪」のみに、遺族からの請求があった場合にのみ適用されうること
・刑罰において重要なのは、被害者への「負債」を支払うこと(=損害賠償・原状回復)であること、それゆえ犯罪者は自己の受ける刑罰を、被害者側から「買い取る」ことができること
・この刑罰の比例性は、実際には「自分が被害者から奪うのと同じ程度」を基準とすること、それゆえ犯罪者Aが被害者Bから1000円盗んだならば、Aは単に1000円を返還するだけでなく、別の1000円を被害者に支払わねばならないこと、こうした比例性は身体的暴行(殴る/殴られる)にも適用されること
・以上のような犯罪の構成要件から、姦通罪、名誉毀損罪は存在しないこと
・このような形でリバタリアンの法は「応報刑理論」に立脚していること、それにより「抑止理論」と「更正理論」に基礎づけられた現在の刑罰体系が批判されねばならないこと
【コメント】
ロスバードは先述した「自然権」を起点として、ここで「所有権」のより具体的なを中身を記述し、「犯罪」を構成するのは「自己」の身体とその「所有権」の侵害のみに限定している。
しかしながらここでロスバードの挙げる原則を考えていくと、「これでいいのか?」という問題が多々帰結する。
・ロスバードの刑罰論は、応報論的立場から、「捜査、逮捕、訴追」の行使を個人か又はその代理人に限定する。だがその場合、「捜査・逮捕・訴追」を経済的に負担出来ない「弱者」はこうした刑罰体系から除外されてしまうのではないのか。
・「応報」する者が存在しない場合、例えば、孤児で遺言もない者に対して「応報」するのは誰か?
・「犯罪」に対する「刑罰」は、当事者同士の「応報」と「損害賠償」に還元可能だろうか。
例えば、犯罪者側が金持ちだったら「窃盗」を繰り返しても、その都度「賠償金」で済まされることになるが、それで良いのか。さらに言えば、「賠償金」自体を最初から「リスク」として「窃盗」を繰り返す犯罪一家、犯罪会社というものも社会的に許容されうるのではないのか。
・またその逆に犯罪者に「支払い能力」がない場合。ロスバードは「窃盗犯を強制して働かせ、そこから生ずる収入を被害者が賠償を受けるまで被害者に配分」し、「理想的な状況は、犯罪者を率直にその被害者の奴隷という状態に置」くことだとする(p.102)が、それでも「賠償」が不履行となる場合は、その犯罪者は一生奴隷状態に置かれるのが「正しい」ことなのか。
・自己の身体や財産への「侵害」にならないもの、例えばストーカーの場合
ロスバードは、「盗聴」が犯罪となるのは盗聴された人物の「財産権」の侵害にあたるからだとし、「プライバシーの権利」など存在しないとする(p.143)。ここで「財産権」の侵害となるのは、おそらく居住地への不法侵入や盗聴器の設置などに拠るものだと思うが、しかしそうした「私有地」の侵害とならないような行為、例えばつきまとい・無言電話・誹謗情報の流布などによる「心理的苦痛」は対象外となるのか。
・ロスバードは、人物Aに関するある言明(例えば「前科者だ」「ホモセクシャル」である)がたとえ偽であっても、人物Bはその言明を(「不道徳」ではあるが)流布する「権利」を有する、としている。その場合、明らかにそれによって商取引上に損害を受けたり、心理的苦痛を受けた場合でも、自己の身体や財産の侵害を受けたことにはならないのか。
【疑問点】
他にもロスバードの議論、とりわけ法論に関する小生の違和感は多々あるが、それは以下のような印象に要約される。
①「所有」の「主体」となるのが「小土地保有の紳士」をイメージしているものが多く、「法人」などの組織を対象としたものが希薄であること
②「公共財」というものが全て「私財」に還元可能であるという想定によること。例えばロスバードの描く「自由な社会」で道路を建設、維持するのは誰なのか。道路は全て何らかの形で私有道路にならざるをえないとなると、貧乏人には「移動の自由」もないのか。
③「非歴史的-観念的」な自然権が、「歴史的・慣習的」な自然権と混合されていること。ロスバードは国家に拠らない自然権的な「法」の具体的イメージを、「部族の慣習、コモン・ローの判事及び裁判所、商事裁判所の商慣習法、船荷主が自分たちで設置した法廷の海事法……、ローマの私法」と示しているが、しかしながら、これらが先述の「クルーソー社会哲学」と接合できるとは到底思えないこと。
④「情報」が所有・取引可能な「モノ」に還元されうると想定されていること。
なるほど確かにロスバードの語るように、「恐喝権」は「情報を公言しないのと引き替えに支払いを受ける権利」として「モノ」と同様に「情報」を取引の対象とできるかもしれない。しかしながら、株式のインサイダー取引やデマの流布による株価操作など、現代社会はロスバードが想定するよりも遙かに「情報」に対して複雑で微妙な関係にあるのではないのか。
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