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2005/06/20

「デモクラシー/ポピュリズム」とは何か?

デモクラシーの冒険 (集英社新書) デモクラシーの冒険 (集英社新書)
姜 尚中 Tessa Morris‐Suzuki

by G-Tools

 姜尚中、テッサ・モーリス-スズキ『デモクラシーの冒険』(集英社、2004年)

・姜尚中 史は、1950年生まれ。東京大学大学院教授。
・テッサ・モーリス-スズキ女史は、1951年生まれ。オーストリア国立大学教授。

・本書は二人の対談形式で展開され、議論はイラク戦争後の世界状況について多岐にわたっているが、以下はその中で小生が関心をもった点と、それに対するコメント。

・本書は、世界的な規模で現在の「デモクラシー」が空洞化している、という点から出発し、それをどう変えていくかという、一見すると「レフト系」の「分かりやすい」話が展開されていくように見えるが、その中で興味深い論点を幾つか提起している。

 (1)「民営化とは何か?」(=テッサ女史)
・福祉国家構想の世界的な終焉と、その後のネオ・リベラリズムの展開において、主として財政的な理由から「政府」をスリム化しようとする動きが顕著になってくる。

日本においても「民営化」「規制緩和」という言説に支配されている点で例外ではないが(なお現在継続中)、そこでは「公的領域/私的領域」をめぐって2つの問題が潜む。

 ①「民営化」の過程において、しばしばイニシアティヴを取る「諮問機関」「推進機関」という機関は、「公的なもの」か「私的なもの」か。こうした機関に対して「メディアはこぞって『族議員の抵抗を排せよ』という類のエールを送り続けるいるのだけど、その族議員とレッテル張りされた人間たちは、まぐれもなく、選挙で選ばれた人たち」(p.71)であることをどのように考えるのか。

 ②民営化=私的領域への移行ではなないこと。「民営化というものは、単純に国家から私企業への管理の権限が委譲されるということではなく、国家と私企業との新たな癒着を誘発し」、「従来のデモクラシー理論が全然視野に入れてこなかったブラック・ボックス」(p.75)であること。

 (2)「政党とは何か?」(=姜史)
・政党(party)が、「代表」ばかりか「アジェンダの設定」としても機能不全に陥っているが、そもそも「政党」という存在は公的な組織か私的な組織か?「本来、公的なのか私的なのか非常に曖昧な団体に、助成金という形の公的資金が投入されつづけていること」(p.86)が問題であること。

・二大政党制の成立が、「真のデモクラシー先進国への脱皮」であるとされているが、そこではもはや「政党」という存在それ自体の意味が忘却されていること(「民意の反映から効率性の重視へ」)。

 (3)「ポピュリズムとは何か?」
・現在の「ポピュリズム」(=大衆迎合的な政治)的状況は、自民党的な派閥利益誘導政治が破綻した後で生じてきたこと。石原慎太郎、田中真紀子、小泉純一郎という今のポピュリスト型政治家は、「代表されていない」都市型中産階級を担い手として登場してきたこと。特に石原が支持される背後には、資産デフレ後の状況にある40~50代世代のサラリーマンのルサンチマンが存在すること。

 【コメント】
・「デモクラシー」をめぐる西洋政治思想史に関しても、章をさいて一通り記述されているが、この点についてはそれほど目新しさは感じなかった(一般向けの新書という体裁においては必要な記述なのかもしれない)。

・「民営化」と「政党」をめぐる問題は非常に興味深いと思った。以前から小生も、「政治的合理性」が「効率性」に、「有権者」が「消費者」に何時頃から翻訳されてきたのか関心を持っていたが、そうした関心と重なる部分が多々あった。これに関しては、同じテッサ女史による『自由を耐え忍ぶ』の方で詳しく論じられているようなので、他日に読んでみたい(だが女史が言うように「企業資本主義とデモクラシーの原理を切り離す」ことができるかは疑問に思うが)。

・ただこうした随所で興味深い洞察が行われているものの、対話を通じて基調とされている二元構図、すなわち、「政府+企業=グローバル権力」vs「デーモスである我々」、あるいは「ナショナリズム+ポピュリズム」vs「真のデモクラシーの担い手」という構図が、果たして有効なのか最後まで疑問を感じた。

・小生の勝手な印象では、両者共に「デモクラシー」が「ポピュリズム」と切り離して論じることができないものであることを了解しながらも、敢えてこうした構図を作っているように感じた。だがそれでは見えないものが多々あることは言うまでもない。

・例えば本書では、北朝鮮をめぐる北東アジアの不安定な情勢が論じられているが、いわゆる「拉致問題」については「事実問題として存在する程度」にしか言及されていない。これはおそらく(小生は両者のこの問題に対するスタンスがどのようなものか良く分かっていないが)「ポピュリズム」としても「デモクラシー」としても論じることができないのではないだろうか。また「竹島/独島」をめぐる「日本/韓国」両者からの下からの「デモクラティック」な訴えかけについても触れられていないが、これもどうだろうか。それを「メディア」が造り出した「ポピュリズム」として片付けることはできるだろうか(一応、ここではこうした反論を記述するが、小生自身はナショナリズムにはあまり関心がないし、石原的な「ネイションの復権」系の議論にも懐疑的である)。

・本書の最後に、一つの提案として、グローバル市場の「消費者」の立場から抜け出て、賢い「参加者」となるためにメディアの中からどの人が「まとも」なのか識別する「目利き」の力を養うことが挙げられている(p.239)。これについては、前半部は反対だが、後半は賛成である。「目利き」の力を養うためにも、賢い「消費者」であり続ける必要があるのであって、それは政治的判断の際の情報の取捨選択においても同じなのではないだろうか。こうした情報のエコノミーを行う「目利き」の意義を再評価こそが、前出の二元構図の脱構築(?)につながるのではないのか、と小生は思う。

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