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2005/12/28

第17回 相関社会科学シンポジウム(2)

タイムラグが出ているが、一応アップ

飯尾潤 氏(政策研究大学院大学・教授)「政治改革の文脈から見た小泉政権」

佐藤俊樹 氏(東京大学大学院総合文化研究科・助教授)「究極のマーケッティング政治――『有権者に顔を向けた』果てに――」

 飯尾潤 氏(政策研究大学院大学・教授)「政治改革の文脈から見た小泉政権」

 (1)小泉改革の過渡的性格と、「大勝」の意味について
 ・「小泉自民」の「大勝」が、これまでの「田中派的」な自民党体制の終焉と、それに伴う「数あわせ政治」の閉塞感の打破を意味していること

 ・今回の「自民党大勝」は、小選挙区の議席増幅効果(少数の票差が選挙結果に大きく反映されること)に拠るものが大きいこと。それゆえ、今回「大敗」した民主党も、イシューに対する今後の態度如何によって、政権獲得に達するほど大きく勝利する可能性があること。

 (3)今後の課題について
 ・日本的な政党政治は、未だに「足腰の弱い」ものであること、外国における競争型政党政治と言ったときの「政党」とは「有権者の集合」であり(日本のような)「政治家の集合」ではないこと。そうした点において、政権交代の形も含めて政党政治の在り方を考えていかねばならないこと
 ・「小泉改革」が志向す「改革」とは、大きく言えば、「安心再生型改革」とでも呼ぶものであり、今後はそれとは異なる改革として「信頼創造型改革」が求められるべきであること。
 つまり、前者が、(「不安」型社会に対して)信頼しうる・顔見知りの「人」「共同体」の再構築を志向すると共に、ある程度の不平等(「コネ」を持つか/持たないかの格差)を容認する新保守主義と結びつくのに対し、後者がより理論的な見地から「制度」への信頼性を向上させるような社会を構想するものであること。
http://www.rieti.go.jp/users/iio-jun/10-RR.html

 【コメント】

・(不特定の他者との共存を図る)「信頼型社会」か(顔見知りの人間集団の凝集性を志向する)「安心型社会」かという選択肢は、小生が見るところでは、リベラル/コミュニタリアン論争の焼き直しのようなもので、それほど目新しいものでないように思えた。

 ・小生自身はよく把握してないが、この方は評論家としては、選挙前はさすがに「自民圧勝」は予想できなかったようである(というか、予想した人がどれぐらいいただろうか)。
http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/saninsen2004/news/news/040708-b.htm
 「政治学」という学問は、「選挙結果を予測する学」ではないのは言うまでもない。むしろ、それとは逆に、その「結果」から「原因」を分析・考察し、そこから、例えば現在の「選挙制度」に関わる問題点を抽出・論証するのが本分であるのだろう。
 そうした「定石」を踏まえた上で、「研究者」と「評論家」のスタンスの齟齬をどのように考えるべきであろうか。「今後の社会」がどうなるのかを求める需要が一般的にあるならば、そうした需要に対して、自己のこれまでの研究成果に立脚して、「妥当と思える」言説を供給すること、その供給それ自体は必要なことなのかもしれない。そしてその「供給」としての発言行為も「言論の自由」として、制度的に保証されるべきなのだろう。

 だが、自己の「予想・提言」がはずれた場合、その際には「研究者」としてどのような「態度」を取るべきであろうか。それは、「責任」の問題と言い換えてもいい。政治家や官僚の「責任」について議論する者であれば、なおさら自己の「責任」について敏感であるべきであろう。小生自身は、別にこの方の「責任」云々を追求する気など毛頭ないし、こうした問題は言い古されたものなのかもしれない。

 ただ、こうした問題は、少々意地の悪い言い方をすれば、そして幾分大袈裟に言うと、「マルクス主義の社会は資本主義の矛盾を超克した社会だ」「北朝鮮は平和の楽園だ」といった言説を「真実」と信じて被害を被った過去の問題と無関係ではない。こうした「学知の責任」の問題はおそらく容易には片付けられないと思うが、「当事者」と「(研究者)世代」それぞれの次元において、過去の言説の是非の検証を行う必要があるのかもしれない。

 佐藤俊樹 氏(東京大学大学院総合文化研究科・助教授)「究極のマーケッティング政治――『有権者に顔を向けた』果てに――」

 ・競争型政党政治における「イメージ」の問題について
 有権者から過半数の票の獲得を狙う政党戦略を、市場の多数派を獲得するという企業戦略として見るならば、そうした戦略においていわゆる「マニフェスト」それ自体は――企業の「ヒット商品」と同じように――類似したものになること。その際に重要なのは、そのマニフェスト・パッケージを「売り込む」イメージ戦術であること。
 その点において、今回の自民党の政党CMは「無難」であるのに対して、民主党のそれは明らかに「失敗」であること。党首の表情が暗く見るに堪えないこと。スローガンそれ自体が後ろ向き(自民の「改革を止めるな」に対し「日本を諦めない」)であること。

 ・そうした「イメージ」の問題は、小泉純一郎というキャラクターにも関係していること。つまり「小泉政治」というものは、「自分の顔」(=私)を「有権者の顔」(=わわれれ)として肯定できるナルシスト政治という点に新しさがあり、それが「圧勝」に関与してるのではないか、ということ。

 【コメント】
 ・「政治」における「イメージ」の問題は、(論者が専門とする社会学の他に)政治学のフィールドにおいても散々論じられてきた話であるが、その語り口調は佐藤氏自身の切り口の鮮やかさもあって面白かった。ただ、民主党のCMの出来がいいものではなかったという点については同意できるが、それによって選挙結果がどれほど説明できるかどうかは疑問を感じた。

・全体的には、小生個人としては、少々「肩すかし」をくらったように感じた。というのも、佐藤氏自身は、日本社会の不平等に関する社会学研究に業績があり、話もそうした方向に関連すると思っていたからである。後のディスカッションで、司会者の方から、今後の政治改革と平等社会/不平等社会という点で話を振られていたが、個人的にはそうした点を掘り下げて聞きたかった。

 【その他】
・ディスカッションでは、ポピュリズムの問題についても言及された。
 小生は、以前にも触れたが(民主主義/ポピュリズムとは何か?)、いわゆるレフト系の論者が語るように、小泉自民党の勝利に典型される現象を「ポピュリズム」として、「真のデモクラシー」と区分する議論には意味がないと思う。「多数者の専制」や「イデオロギーによる操作」といった問題が、デモクラシーという制度それ自体に付随するものであることは今更強調するまでもない。そうした点で、飯尾氏か佐藤氏かどちらかが、「『ポピュリズム』を『エクスキューズ』にしない」と言っていたことは、重要であると思う。「学問」に携わる研究者にしても、「政治」に携わる政治家にしても、そうした「ポピュリズム」と呼ばれる現象を、シニカルにならずに、現代政治において予め織り込んで思索なり行動なりすべきであると思う(というか、分別のある者は、既にそう思想・行為しているだろう)。

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