レオ・シュトラウスと「リベラル・エデュケイション」
添谷育志「L・シュトラウスとA・ブルームの『リベラル・エデュケイション』論」『法学』(東北大学法学部)55-6, 1992.
・「一般教養教育」と訳される liberal education について、レオ・シュトラスと、その弟子アラン・ブルームがどのような理解をしていたのか。その時代性、また師匠と弟子のズレが明示されていて非常に興味深い。
・アメリカの教育政策の転換と保守主義の変容などが踏まえられながら、ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』でのリベラル・エデュケイションの特異性が論じられている。
・例えば、「大衆民主主義」に対抗するための「エクセレンス」の称揚という文脈においても、E・D・ハーシュのそれとは大きく異なること。
・ハーシュ(『カルチャル・リテラシー』)が、「すべてのアメリカ人が知っておくこと」の一覧表を整備・教育することで、国家共同体において効率よく意志疎通を行う土壌を創出しようとした「プラグマティズム」の色合いが濃いのに対して、ブルームにはそうした意図がないこと。
・ブルームの「リベラル・エデュケイション論」は、時代の「相対主義」を超克するものとしての古典テクストの解釈、とりわけ nature を論じる学としての「哲学」に関わっていること。ブルームは「西欧文化の「やり方」が最善かつ絶対的なものだと言っているわけではない。逆に、ギリシア哲学の影響を受けた西欧の国々だけ、自らの「やり方」と「最善のやり方」を同一視する「自民族中心主義」を相対化する「自然」というより高次の基準への探求としての「哲学」が存在する、大学はなによりもまずそうした「哲学」の府であるべきだ、というのがブルームの様々な主張を支える確信である」(200頁)。
・そうした文脈での、大学の「閉鎖=解放」というブルームの両義性
「大学を社会から閉ざすことによって、社会に対してより高次の「選択肢」への窓を開くこと、いうならば真の寛大のための排他性、ブルームの提唱する「リベラル・エデュケーション」の究極目標はそこにある」(202頁)
・添谷氏は『アメリカン・マインドの終焉』での「大衆批判」が「大衆的に消費」されること、その要因として、こうしたブルームの「真面目」な主張が、ある部分「冗談」とみなされることについて言及しているが、これは重要な指摘だと思う。
・こうしたブルームの主張は、師シュトラウスのリベラル・エデュケイション論(「リベラル・エデュケイションとは何か」「リベラル・エデュケイションと責任」)を念頭においたものでありながらも、師のコンテクストを逸脱していること。シュトラウス自身も、大衆民主主義社会での「凡庸化」への抵抗としてリベラル・エデュケイションを提示するが、「紳士」と「哲学者」に対する「リベラル」「教育」の分節化・位置づけはより巧妙であること。
「おそらくシュトラウス自身は、大衆民主主義社会の「低俗さ」に抗して「偉大な書物」を共に読む少数者の特権的集団を維持すること以上の期待を、「リベラル・エデュケイション」に託してはいない。……師の忠告に反し、ブルームは「リベラル・エデュケイション」に脚光を、しかも過剰な脚光を当ててしまったといえよう」(208頁:強調は引用者)。
・添谷氏自身はここで明示的に言及されていないが、「公共的-秘教的」というシュトラウスの有名な区分が想起されるべきであろう。「一般教養」それ自体が「大衆化」「消費化」されるという現代にもつながる問題も含め、非常に面白く読むことができた。
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