国益とは何か:佐藤優『国家の罠』を読む(2)
・しかしながら、著者が本書で何度も繰り返す「国益優先」という言葉には少々戸惑いも感じた。「すでに「国益」の単位となる「国家」の枠組み自体は、相対化されている」というよく言われる批判について、ここでは括弧に入れるとしても、当惑を感じた。
・著者は本書で、自分の刑罰の量刑よりも「国益」を重視していたことを強調しており、また、北方領土交渉などの日本の「国益」のために著者が献身してきたことも、おそらく事実なのだろう。そして外交関係において、いかに「機密」情報の取得が重要であり、そのために外交官・情報提供者同士の「信頼」関係の積み重ねが肝要であるかも、著者の言うとおりなのかもしれない。しかし、そうであればこそ、外交官・情報提供者に対してだけでなく、外務省内部・国民側からの「信頼」についても、細心の注意を払う必要があったのではないか、と思う。「国益」中心という無私の姿勢と、「国益」を実現する「物語」というヒロイズムとのあいだは、それほど隔たっていないように思えるのである。
・何でも「情報公開」して議論すれば「政治」はうまくいくというお気楽な民主主義論は論外としても、それでは何を「機密」にして何を「公開」するのが「国益」たるのだろうか? 、誰もに適用可能であるような客観的な基準を構築するのは困難であろう。
・小生自身は、やはり著者のような優秀で情熱的な官僚=専門家が必要だと思う。その情報収集能力・政策作成能力・交渉能力を有効に活用することなくして、現在の困難な外交問題を処理することはできないだろう。そしてそれゆえ――月並みではあるが――、①その官僚を統制する「政治」のプレゼンス、そして②「機密」内容の事前/事後チェックの制度化・徹底化のコンセンサスが重要であることになるだろう。
・「政治家主導」「官僚コントロール」という言葉もマスコミで流通しているが、少なくともこの著者と田中真紀子女史の場合、それはその負の側面(機密情報の漏洩、政治パフォーマンスによる地道な「交渉」の積み重ねの破壊、等)が大きかったようである。そしてそれは無論、そうした「無能な」大臣を任命した首相に責任があることは言うまでもない。単なる政治家勤務「年数」「女性」「民間」という指標よりも、「政策」能力(「その人がこれまで何を行ってきて/これから何を実現させようとしているか」)、情報管理能力、またその経験・人脈、人心掌握能力などが考慮されるべきだろう。
そして「政治」の「学」としての「政治学」に意味があるとすれば、「政局・選挙予想」などよりも、そうした「政治家」の資質についての情報を整備・提供する作業にこそ意味があるのではないか、と思う。
・「政治学」の問題に関して付言すれば、政策形成における「政治学者」の影響――この場合、外交政策に関わる官学での勉強会、両者のあいだの情報交換――が大きいのは想定外であった。(「セイジに関わるのは汚れた輩だ」みたいな嫌悪感を持つ大先生が、学会のようなところで権力志向を持つ、見たいなパターンは、良い意味でも悪い意味でも崩れつつあるのかもしれない)。
青山学院大学の袴田茂樹氏などの「協力」と「裏切り」(むろん、それは著者の側からの認識であるのだが)が克明に描かれていること、そうした「学者の政治」にリアルに言及されている点も本書の魅力の一つである。
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