新保守主義(ネオコン)とは何か(1#)
前掲した拙論に対する、橋本氏によるコメント
それに対する若干の再コメント
・拙論で批判の対象とした部分において、周到な思慮と留保が行われているようで、これについては安堵すると共に、「うまく釣られてしまった」と苦笑してます。ただ、「アーレントの思想的・政治的意図と、新保守主義者の思想的・政治的意図が異なること」と論稿で書かれてあれば、拙論の批判の多くは無用であったかもしれません。
・「正当な継承者」云々については、私自身はあまり関心がありません。新保守主義的なアーレント解釈に対して「アーレント研究者たちは、別の正当な継承を提示する政治的責任がある」とは私は思えません。はっきりご指摘されてるように「問題の本質は政治的であり、闘争的なものである」場合に、新保守主義vsアーレント研究者という闘争にどれぐらい意味があるか、疑問に思います。
・ただ、私自身の見方に関して言えば、「アーレントの「毒々しい部分」を継承し、しかも「多くの重要な論点」を継承した」という点においては、首肯できる部分が多々あります。リベラル-市民社会系でのアーレント研究では看過されがちですが、アーレントの思想における「危ない要素」については、同時代の論者によって指摘されていました(例えば、利害や目的から離れた action〔=政治行為〕の自律性は、「芸術のための芸術」ならぬ「政治のための政治」であって、そうした審美主義的な危うい要素をニーチェ-ハイデガーから受け継いでいるという批判がされてきました(この点に関しては、川崎修「アーレントを導入する」『現代思想』1997年 25(8)が参考になります)。
・私自身は、そうしたある点で「危うい」部分にこそ、アーレントが単に「差異の政治」や「物語の政治」などに還元されない面白さと可能性があるのではないかと考え、それを「祝祭」というタームで表現し論じました。(概要についてはこちらを参照)
これは簡単に言えば、actor/spectaorという関係によって構築されているアーレントの演劇的政治観を敷衍し、ルーティンワークとしての 行動(behavior)とは異なる政治行為(action)の非日常性に注目したものです。従って私自身の解釈枠組みで言えば、サミットの会合も、それに反対する市民運動の抗議集会も、経験の強度という点では同じ地平で「公的空間」として捉えられる、ということになるでしょう(逆に言えば、ルーティンワーク化されていたらそれは「公的な輝き」を失っているといえるでしょう)。そしてその祝祭空間の意味づけ自体が流動すること、例えばルーマニアの蜂起のように、「王様は偉大だ」という集まりの主旨が「王様は裸だ」というものへ反転しうること、そうしたスリリングな場としてアーレントが「公的空間」を構想しているのではないか、と論じました。
・こうした解釈は、私自身が読み返して不満を感じる部分もありますが、アーレント論としてそれなりにユニークなものではないかと思います。しかしながら、こうした拙解釈が、新保守主義的解釈へのオルタナティヴに成りうるとは思っておりません。「問題の本質は政治的であり、闘争的なものである」場合には、その闘争は「声の大きい方が勝つ」――有名大学教授などの肩書きや、メディア戦略――ように思えるからです。
・その点では、シュトラウスやアーレント自身の深く洗練された議論よりも、その「凡庸」な亜流のほうこそ、研究対象として取り上げることが重要かもしれません。(また、これはおそらく大前提とは思いますが、日本とアメリカにおける政策担当者と知識人社会との関係――アメリカ政治における思想と政策との「近さ」――が大きく異なることも考慮されるべきでしょう)。それでもその「大きな声」に対して「否」を唱えるのは、研究者の知的責任であると私は思います。
« 新保守主義(ネオコン)とは何か(1):橋本努「二一世紀最初の政治思想――ヒンメルファーブとシュトラウス」 | トップページ | レオ・シュトラウスとハンナ・アーレント(1):隠された「対話」? »
「新保守主義、レオ・シュトラウス」カテゴリの記事
- 第15回 政治哲学研究会――石崎嘉彦『倫理学としての政治哲学』をめぐって(2)(2009.12.23)
- 第15回 政治哲学研究会――石崎嘉彦『倫理学としての政治哲学』をめぐって (1)(2009.12.23)
- シュトラウスの倫理学は可能か? ――石崎嘉彦『倫理学としての政治哲学:ひとつのレオ・シュトラウス政治哲学論』(2009.10.20)
- シュトラウスと「秘教的解釈」(2)(2007.03.03)
- シュトラウスの 秘教主義(エソテリシズム)について(2007.02.15)
この記事へのコメントは終了しました。
« 新保守主義(ネオコン)とは何か(1):橋本努「二一世紀最初の政治思想――ヒンメルファーブとシュトラウス」 | トップページ | レオ・シュトラウスとハンナ・アーレント(1):隠された「対話」? »
コメント