シュトラウスと「秘教的解釈」(1)
新保守主義におけるシュトラウスの影響(そしてアメリカ外交における新保守主義の影響)を過大視し、「危機」を煽り立てる言説は、すでに現実での言説需要の変動において、忘却されつつあるようにも見える。つまり、フランシス・フクヤマの「転向」は、アメリカ国民の厭戦気分を背景とした中間選挙での民主党の勝利や、超党派議員から成る「イラク研究グループ」(Iraq Study Group)の提言を受けた年明けからのイラク政策の見直しなどとリンクしていることは疑いないし、ある意味必然的であったとも言えよう。
だが本論で注目したいのは、レオ・シュトラウスという思想家が「アメリカの政策に実際に影響力を及ぼしたかどうか」ということではない(現実政治の具体的政策に、「一人の思想家」の影響の有無を論じるのは、――日本とアメリカにおける、知識人と政治家との「距離」の相違を考慮するとしても――かつてマルクスがそうであったように、不毛であると私は思う)。
問題とすべきは、シュトラウス自体のものも含めて、「公教/秘教」という様相でテクストを読み解くこと、それ自体に内在する問題である。ここではその問題を、差しあたり、①「学術的解釈」の成立可能性/不可能性、という問題、②「秘教的解釈」それ自体の「凡庸さ」という問題、の二点を挙げて考えてみたい。
①学術的「解釈」の成立可能性/不可能性
近年におけるアメリカ外交政策への影響の有無という文脈以前に、「公教/秘教」というシュトラウスの解釈手法に対しては、以前から批判が指摘されてきた。その中でも注目すべきなのは、1975年のJ・G・A・ポーコックの論稿である。共和主義の歴史的研究で名高いポーコックは、「預言者と審問者」と題された論稿において、そうしたシュトラウス的解釈手法、並びにそれを増幅したシュトラウスの弟子筋の解釈方法を手厳しく批判している( J.G. A. Pocock, Prophet and Inquisitor or A Church Built upon Bayonets Cannnot stand: A Comment on Mansfield's ``Strauss's Machiavelli'' Political Theory, vol.3 no.4 November 1975. 385--401.)。
ポーコックは、シュトラウス派の一人マンスフィールドのシュトラウス研究(「シュトラウスによるマキャヴェリ」( Harvey C. Mansfield, Jr., ``Strauss's Machiavelli'', Political Theory, vol.3 no.4 November 1975. 372--384.)を批評する中で、それがシュトラウスという教義(カノン)を奉り、審問官あるいは憲兵として冒涜者を排斥するものに陥っていると論ずる。
ここで対象とされているのは、シュトラウスの『マキャヴェリ考』(Thoughts on Machiavelli)であるが、ポーコックはこのシュトラウスによるマキャヴェリ研究が一方で鋭い洞察に満ちたものであることを認めつつも、他方において、その「秘教的解釈」を駆使した研究が、学術的枠組みを大きく逸脱することの問題を提起している。ポーコックは(アラン・ブルームの論稿に拠りつつ)、「秘教的記述・解釈」の発見がシュトラウスにおいて重大な転機であった(それは「学術的枠組みからの逸脱」が確信犯的であることを含意している)ことを踏まえた上で、それが学問上、深刻な問題・危険性を孕むものであることを指摘する。
ポーコックに拠れば、シュトラウスが参照している中世ユダヤ・イスラムの秘教的解釈は、実際には「時に驚くべきほど公然と」そこに「秘教」が存在するという伝承に拠るものであるが、シュトラスはそうした伝承とは無関係に、「秘教」の隠蔽それ自体を探し出そうとしている。しかしながら、こうした「意味の隠蔽」ではなく「意味の隠蔽自体の隠蔽」を暴き立てようとすることは、自縄自縛に陥らざるをえない。「目下、明らかに危険であるのは、秘教の言葉の存在を発見したという解釈が未検証である場合、それが秘教の言葉それ自体に成りうるということ、陰謀を発見したという者彼自身が陰謀者と成りうるということに他ならない」(Pocock, op.cit, p.389)。
例えば、シュトラウスは「秘教的」解釈の一例として、「沈黙による語り」(argumentum ex silientio)の読みを過大に用いるが、それは果たしてどこまで妥当であろうか。問題は、そうした技法をマキャヴェリ自身が用いたかどうかではなく、その明白な規定・制限がシュトラウスによって述べられていない点であり、その「正しい読み方」を行うのがシュトラウスのみであるという点である。「沈黙」の意味を過剰に読み込み、「マキャヴェリは……と言うのを控えたが、本当は……と意図したのだ」という表現の濫用は、それは「誰も間違いを犯さない世界、意図しないことは何も語られない世界」へと我々を誘うことになる、とポーコックは揶揄している。
« レオ・シュトラウス関係短評 | トップページ | シュトラウスの 秘教主義(エソテリシズム)について »
「新保守主義、レオ・シュトラウス」カテゴリの記事
- 第15回 政治哲学研究会――石崎嘉彦『倫理学としての政治哲学』をめぐって(2)(2009.12.23)
- 第15回 政治哲学研究会――石崎嘉彦『倫理学としての政治哲学』をめぐって (1)(2009.12.23)
- シュトラウスの倫理学は可能か? ――石崎嘉彦『倫理学としての政治哲学:ひとつのレオ・シュトラウス政治哲学論』(2009.10.20)
- シュトラウスと「秘教的解釈」(2)(2007.03.03)
- シュトラウスの 秘教主義(エソテリシズム)について(2007.02.15)
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
噂で聞くだけで、シュトラウスの『秘教的解釈』も常識的に想像したゐただけですが、
どうやらアリストテレスから始まり1960年代からのチュービンゲン学派に受け入れられた、(英米では認められてゐない?)プラトンの『語られざる教説』のやうな話ではなささうですね。
投稿: あがるま | 2007/02/02 22:14
あがるまさん、コメント有り難うございます。
シュトラウスのなかでは、主としてユダヤ教神学者マイモニデス、イスラム教神学者ファーラービーなどが高く評価されているようですね。その点補足しておく必要がありそうですね。
投稿: More(管理人) | 2007/02/04 18:54
『語』られざるではなくて『書かれざる』でしたね。
『沈黙による語り』はG.ヴァッティモも使つてましたが、マイモニデスやアル・ファラビから来るのですか?
投稿: あがるま | 2007/02/04 21:53
正確に言えば、シュトラウスは、マイモニデスやファーラービーのプラトン解釈などを通じて「秘教」的叙述・解釈に注目していった、ようですね。(意図的な)矛盾や曖昧さ、沈黙の背後にこそ著者の真のメッセージがある、という解釈法のようです。
投稿: More(管理人) | 2007/02/05 18:37