新保守主義(ネオコン)とは何か(3):シュトラウス派をめぐる問題(続)
このようなドゥルリーの解釈は、一方において訓詁学的・伝統的、他方において不可解で分かりにくいシュトラウスの思想を、「公教/秘教」という二つの位相から新しい見通しを提示するものとして、確かに刺激的な研究である、と私は思う。しかしながらそれと同時に、こうした解釈手法が学術的な研究においてどれほど有意義なのか、という疑問も強く感じる。
シュトラウス、シュトラウス派、新保守主義、の三者を、ある意味強引に結びつけて論じるドゥルリーのスタンスには、シュトラウス派とは関係のない多くの研究者から既に(それ自体正当な)多くの異議が提示されている。
例えば、「……シュトラウスから影響を受けたと語る人々の思想とシュトラウスの政治哲学との間には本質的な相違が存在し、個々のシュトラウス学派や新保守主義者についての綿密な思想的分析なしに、シュトラウス本人の言説とシュトラウス主義と呼ばれる思想と新保守主義との結合について一般的に語ることは無理であり、不用意な間違いが増幅されている」、という批判が存在する(柴田寿子「「グローバルなリベラル・デモクラシー」と「ワイマールの亡霊」:レオ・シュトラウスの浮上は何を物語るか」山脇直司・丸山真人・柴田寿子(編)『グローバル化の行方』新世社、2004年)。
興味深いのは、こうした批判が、近年では新保守主義と呼ばれる陣営自体からも提起されている、ということである。
かつて自らを新保守主義と自認し対イラク強硬策を支持したフランシス・フクヤマは、近著『岐路に立つアメリカ』(邦題『アメリカの終わり』)と題された著書において、その新保守主義の陣営からの「離脱」を宣言しているが、その中で、「ブッシュ政権の外交政策にシュトラウスが影響を与えたと見ることがバカげている理由の一つに、イラク戦争へと邁進したブッシュ政権内にシュトラウス派がただの一人もいないという事実がある」、と強調している(邦訳35頁)。
フクヤマは、ドゥルリーらが言うように、「体制 regime」についてシュトラウスの政治思想が、新保守主義派の推奨するイラクの「レジーム・チェンジ(体制転換)」に結び付きうると認めるとしても、それは一方で、「アメリカが試みている体制転換に対し、赤信号を出していると見て取ることも可能」だと論じている(邦訳45頁)。
ましてや、もともとの新保守主義の源流の一つが、リベラル派の社会改革的ユートピア(「偉大なる社会」の建設)への強い疑念であり、「社会改造の限界」への慎重さであったことを想起するならば、イラクの「レジーム・チェンジ」といった大規模な「社会改造」は、自分たちがかつて否定したものではないのか、と喝破する。
フクヤマの「転向」は、かつての「味方」からも「敵」からも「変わり身の早さ」と揶揄されかもしれない。しかしながら、新保守主義(ネオコン)の系譜と政策的共通項を巧に整理することによって、「新保守主義(ネオコン)に乗っ取られたアメリカ外交」や「新保守主義(ネオコン)の神祖としてのシュトラウス」などといった粗暴な議論を一刀両断した筆致は素直に評価したい。
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