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2007/01/24

レオ・シュトラウス関係短評

ホッブズの政治学 ホッブズの政治学
レオ シュトラウス 添谷 育志 飯島 昇蔵


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近代政治思想の祖とされるホッブスの問題関心が、古代のアリストテレスとの対決を通じて形成されていった過程を検証した名著。既にホッブス研究では古典となっているようであるが、デカルトの問題系(幾何学的世界観)とは異なる思想系譜を論証したものとして、その意義は失われていない。公教/秘教にこだわり古典の注釈にウェイトを置いた(要は「退屈に見える」)後期のシュトラウスの著作よりも、エレガントであるように思える。

古典的政治的合理主義の再生―レオ・シュトラウス思想入門 古典的政治的合理主義の再生―レオ・シュトラウス思想入門
レオ シュトラウス T.L. パングル Leo Strauss


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シュトラウスの「近代批判」「古代再評価」についての研究を纏めた論文集。「近代合理性」の名の下で、歴史主義、相対主義、科学主義が批判され、その代替として「古代合理性」――philosophy とscience とが不可分であった時代の叡智――の再興が提唱されている。「それが果たして代替となりうるのか」という疑問なしには(シュトラウス崇拝者以外には)読み進むのが困難な書物だと思う。

リベラリズム 古代と近代 リベラリズム 古代と近代
レオ シュトラウス Leo Strauss 石崎 嘉彦


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原題にある「リベラリズム」は、一方では(a)近代ヨーロッパ思想の根幹にある個人主義と寛容主義を包摂するliberalism、他方では(b)それとは重なりながらもズレるアメリカ独自の(日本語では「自由主義」とは訳されえず「社会民主主義」に近い)リベラリズム、の二つを指示している。例によってシュトラウスは、その近代リベラリズムを、古代政治哲学の復興によって乗り越えようとするのだが、その実践的な方策として、「リベラル・エデュケイション(一般教養教育)」の議論が展開されているのが(その有効性の正否はともかく)興味深い。

僭主政治について〈上〉 僭主政治について〈上〉
レオ シュトラウス Leo Strauss 石崎 嘉彦


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原本では一冊である On Tyranny を上下巻に区分・邦訳したもの。上巻では、注釈の元になるクセノフォン「ヒエロン――または僣主的な人」、それについての全7章から成るシュトラウスの注釈が訳出されている。個人的には、下巻で展開されるシュトラウス-コジェーヴ論争、往復書簡の方が興味深いように思う。ただ、シュトララス自身の逐語訳へのこだわりを念頭におき、「一つの単語に同一の日本語を当てる」という翻訳方針を採用したらしい(nature を「自然」で統一表記するのは(分かりにくい所はルビが付されてはいるが)、正直当惑した)。

The Political Ideas Of Leo Strauss The Political Ideas Of Leo Strauss
Shadia B. Drury


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シュトラウスが問題視した「秘教/公教」という解釈枠組みをシュトラウス自身のテクストに用いることで、「退屈に見える」言説の背後にポスト・モダンの政治思想を読み込んだ(と言われる)画期的な著作。単に「シュトラウスは偉い」と崇拝するシュトラウス派の研究書よりはずっと面白い。増補版(2005)の冒頭では、イラク戦争・占領統治を続けるブッシュ政権・新保守主義の外交政策が、シュトラウスの言う「法的拘束を受けない賢人の隠れた支配」の実例であることが強調される。本書についての批評は本ブログ記事を参照。

Leo Strauss And the Politics of American Empire Leo Strauss And the Politics of American Empire
Anne Norton


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レオ・シュトラウスの弟子ジョセフ・クロプシー、ラルフ・レーナー、そしてアラン・ブルームらから教授を受けた著者が、その大学での教育風景を内側から描写し批判したもの。シュトラウス派内部における「ヒエラルキー」「ランキング」の存在など、サークル内部の事情が赤裸々に語られ、ドゥルリーの批判にあるような、秘密結社的なエリート養成の様子が叙述されている(ドゥルリー自身はこの著作を批判しているが)。ただ、著述様式は回想的エッセイというものであり、注記や参考文献などが付された学術的なものでない。

アメリカの終わり アメリカの終わり
フランシス・フクヤマ 会田 弘継


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原題は『岐路に立つアメリカ』。著者は自分が元は「新保守主義(ネオコン)」であったことを認め、そこからの決別を宣言する。自己の知的来歴(アラン・ブルームの弟子、ウィリアム・クリストルの盟友)や政治的経歴などを念頭に置きつつ、「ネオコン」という名称を検証し明晰化しようとする論述内容は、巷にあふれるネオコン脅威論・賛美論とは一線を画する。著者が推奨する「現実的ウィルソン主義」が、アメリカ外交の「新たな道」となりうるかどうかは不明だが、アメリカ保守-新保守の連合の時期、ネオコン派抬頭の転機としての「悪の帝国」ソ連の崩壊など、シュトラウス研究に限らず、アメリカ論、国際関係論で興味深い論点が見受けられる。

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