シュトラウスと「秘教的解釈」(2)
②「秘教的解釈」の「凡庸さ」について
(①学術的「解釈」の成立可能性/不可能性の続き)
このようなポーコックの議論は、シュトラウスの「秘教的解釈」の危うさを早くから適切に批判しているものと言えるだろう。だがこの批判は、シュトラウスの秘教主義に対しては有効であっても、ドゥルリーのそれには該当しない。というのも、ドゥルリー自身、シュトラウスの手法を直接シュトラウス自身に適用させるわけではない、と明言しているからである( Shadia B. Drury, The Political Ideas of Leo Strauss, p.lixff)。ドゥルリーの「秘教的解釈」は、本人自身が述べているように、シュトラウスのように「行間を読む」(between the lines) あるいは「行文の背後を読む」(behind the lines)のではなく、「行文を読む」(in the lines)という手法によるという。具体的には、 (1)非体系的な記述への注目、(2)明瞭な言明が、必ずしも意図通りの記述でないこと、(3)鍵となる概念(徳、正義、高貴さ、紳士性)の二重使用への注目、がそれに該当する。
そうした形で言及されるシュトラウスの「隠された教え」とは何であろうか?
それはシュトラウスが「表向きは」否定的に言及しているニーチェであり、マキャヴェリズムであるという。プラトンは正義や徳の唱導者としてではなく、シニカルに「高貴な嘘」を語るニーチェ化されたプラトンとして理解される。「哲学者」が語る「真理」とは「神話」に他ならないのであって、「哲学者は、人間の生に必要な神話の創造者である」(p.176)。つまり、プラトンの語る「哲学者」とはニーチェによる「超人」であり、神が死んだ世界において「神話」によって秩序を生み出す者である……。
しかしながら重要なのは、シュトラウスの「隠された」政治哲学が、以上のようなニーチェ化されたプラトンであり、「高貴な嘘」「神話」によるシニカルな哲人支配であったとして、それで一体何が政治的に問題となるのか、ということである。その「隠された」事柄を「暴いた」ことは、シュトラウスを信奉する者にとってはスキャンダルなのかもしれない。だが、そうした政治化されたニーチェに類似した話は、(ドゥルリー解釈による)シュトラウス以外でも論じられるような「凡庸な話」ではないだろうか。さらに言えば、シュトラウスの「隠れた教え」が、プラトンであろうともニーチェであろうとも、それとは全く関係なしに、アメリカは覇権主義的外交を展開し、イラクを侵略したのではないだろうか。
要するに、解釈コードの差異化が政治的意味を持つこと、そのこと自体は存在するものの、それはドゥルリー的なシュトラウス解釈に該当するか疑わしい、と私は思っている。それは他の「解釈の政治」の事例と比較すると分かり易い。
例えば、近代日本における「天皇」の公教的解釈/秘教的解釈とという問題と比較すると理解しやすい。久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』では、近代日本の天皇制が「顕教」と「密教」(exoteric/esoteric)という二重の解釈枠組みにおいて運営されていたと指摘されている。
「注目すべきは、天皇の権威と権力が「顕教」と「密教」、通俗的と高等的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤の作った明治日本の国家がなりたっていたことである。顕教とは、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主と見る解釈のシステム、密教とは、天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主と見る解釈のシステムである。はっきりいえば、国民全体には、天皇を絶対君主として信奉させ、この国民のエネルギーを国政に動員した上で、国政を運用する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用するという仕方である。」(久野・鶴見『現代日本の思想』132頁)
この場合「無限の権威と権力を持つ絶対君主」という「顕教」が欺瞞であり、実際は制限君主でしかないとする「密教」の暴露は、大きな政治的意味があった、と私は思う。つまり「王様は偉大だ」というアウラが存在する場合においてこそ、「王様は裸だ」という告発は政治的に意味があるのであって、そうしたアウラが存在しない王様を騒ぎ立ててもそこに「解釈の政治」は成立しない。そして、こうした天皇制をめぐる「顕教」「密教」の政治的スペクトルに比較すると、シュトラウスの「公教/秘教」にどれほど政治的に意味があるのか、疑わざるを得ない。
もう一つの比較として、アーレント『全体主義の起源』において描かれている解釈コードの政治性の事例を見てみよう。アーレントに拠れば、スターリンが語った(と言われる)「モスクワにしか地下鉄はない」という言明に対して、政治アクターは異なるコードによって解釈していたという。ナチ党への単なる(1)同調者(シンパサイザー)は、その指導者の言明を辞儀通りに信じる。(2)ナチの党員は、その公式発表自体が嘘であることを自覚しつつも、その嘘が何らかの目的を達成するものであると理解する。(3)そして精鋭部隊は、その事実的言明を行為遂行的に捉え、「ボルシェヴィキーの精鋭組織は、「モスクワだけに地下鉄がある」という言明の本当の意味は他の都市の地下鉄はすべて破壊されねばならないということなのだとすぐ理解したら、パリで地下鉄を見ても別に意外とは思わなかった……」(『全体主義の起源:第三巻』135頁)。このように解釈コードの差異化によって、常に「指導者の本当の意図」が真空化された状態こそ、アーレントの描く全体主義の運動に他ならなかった。アーレントはこの全体主義の組織を秘密結社に喩えているが、こうした秘密結社的な「解釈の政治」と呼ぶべきものを、シュトラウスの「秘教主義」に見出すことはできない。
ドゥルリーの研究は、多くのシュトラウス派の研究では見えなくなっているシュトラウスの問題性を浮き彫りにしている点で独創的であると、私は思う。しかしながら、それは単純にネオコンなどと接続される点によってではなく、他の論点を介して、例えばリベラル・デモクラシーの枠組みの外部に存在する点から捉え返すことによって、初めて意義深いテーマとなるように思われるのである。
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