「戦争責任」とは何か(1)――ハンナ・アーレント「独裁体制のもとでの個人の責任」
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責任と判断 ジェローム・コーン 中山 元 by G-Tools |
・ハンナ・アーレント、ジェローム・コーン(編)、中山元(訳)『責任と判断』2007年、筑摩書房. 原著は、Hannah Arendt, Responsibility and Judgment, Schocken Books, 2003.
・アーレントの戦争責任論に関しては、一時期、高橋哲哉氏などを中心とした〈忘却の穴〉をめぐる議論(=体制に都合の悪い事実を「最初からなかった」ことにする全体主義のテロリズムを問題視する議論。転じて「歴史修正主義」に典型とされる「歴史」の書き換えを警戒する議論)から注目されていた。
・しかしながら、『イェルサレムのアイヒマン』に代表されるアーレントの「責任論」の関心の所在はそれとは別のところにある。本書『責任と判断』はそうしたアーレントの「責任論」を中心として編纂された論文集である。アーレントが問題としているのは、「なぜ多くのドイツ人(とりわけ公職にある者)が安易にナチス体制に同調したのか」という点にある。
(裏返せば、ヒトラーが何を命じようとも、公職にある者が同調しなければ、ユダヤ人の虐殺は起こらなかった、という想いがある)
・アーレントが「責任」論で批判しているのは、主として以下のような類の主張である。
(a)「ナチス体制においては誰もが悪人であり、裁きなど偽善である。“現場”に居合わせない者に裁くことはできない。“誰もがアイヒマン”であって、誰にも罪がある。」
・このような類の主張に対し、アーレントは批判する。
(a')「誰もが罪がある」という議論は、「誰も罪がない」ということに等しい。「罪」の裁きは個人が何を「行ったか/行わなかったのか」の次元の問題である。集団に帰属することの「政治的責任」と、個人の道徳的行為による「罪」とは別の問題である。従って、ナチズムに関与しなかった若者が「罪悪感」を持つというのは議論として正しくない。
「しかしまだ若く、戦争中に何かをなすことはありえなかった世代の青年たちが、罪を感じる と主張するとしたら、その青年たちは間違っているか、混乱しているか、知的なゲームを演じているかのいずれかなのです。集団的な罪とか、集団的な無実のようなものはありません。罪と無実の概念は、個人に適用されなければ意味をなさないのです。」(同書、38頁)
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