「戦争責任」とは何か(2)
・前回述べたように、アーレント『責任と判断』には、「独裁体制のもとでの個人の責任」、「道徳哲学のいくつかの問題」「集団責任」など、アーレントの「責任」をめぐる論稿が並んでいる。これらの議論は、有名な『イェルサレムのアイヒマン』にも関連しており、アーレントの政治思想の重要な一部を構成している。
・アーレントが問題としているのは、政治を主導した「真っ黒」な権力中枢部の人間や、あるいはその逆に体制それ自体に関与しなかった「潔白」な人間、ではなく、そのあいだの「灰色」の人たち、何らかのかたちで体制に「協調した」人たちの責任である。「怪物」や「サディスト」たちではなく、公職にあった(しばしば尊敬されていた)人びとの加担の責任こそ、問われるべきである。
・どのような批判が行われているのか。
(b)「歯車理論」……組織においては個人の行為は「歯車」であり、アイヒマンも巨大な組織の「歯車」すぎなかった。
(b')アーレントの批判
むろん、全体主義という体制それ自体が「犯罪」であったことは疑いない。しかしそれは「個人の」法的な裁きとは別の問題である。「法廷で裁かれるのはシステムではなく、大文字の歴史でも歴史的な傾向でもなく、何とか主義(たとえば反ユダヤ主義)でもなく、一人の人間なのだということでした。……役人としての地位においてではなく、人間としての能力において裁かれるのです」(40頁)。
(c)「より小さな悪の正当化」という議論……「職務を離れなかったのは、さらに悪い事態が起こるのを防ぐためだったのです。内部に留まった者だけが、事態を悪化させないことができ、少なくとも一部の人びとを助けることができたのです。」(44頁)
(c')アーレントの批判
・ごく初期の段階で、ナチス体制が転覆していれば、そうした正当化は意味を持つが、その多くは、ワイマール>>>ナチス>>>戦後ドイツと、職務を継続していった。問題なのは「政治的にはこの論拠の弱点は、〈より小さな悪〉を実行した人は、すぐに自分が悪を選択したことを忘れてしまうということろにあります」(46頁)。
(d)全体主義体制下にあっては、そもそも「服従」するしかなかったという議論
(d')アーレントの批判
厳密に言えば「服従」は政治の領域では存在しない。「服従」と呼ばれているのは「合意」あるいは「支持」である。「合意するのは成人であり、服従するのは子供です。成人が服従する場合には、実際には組織や権威や法律を支持しているにすぎず、それを“服従”と呼んでいるのです。」(57頁)。
・【コメント】支配/服従という言葉自体がそもそも「政治」の言語ではなく、「服従」は単に「合意」「支持」の変形にすぎないというアーレントの姿勢は極端なように思える。しかしながら、彼女自身が、ナチスの迫害や反ユダヤ主義の中での死線を切り抜けてきたものであることを念頭におくと(これについては、名著 エリザベス・ヤング=ブリューエル『ハンナ・アーレント伝』を参照)、そう主張するスタンスも理解できる。
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