ナショナリズム論の最前線?
「リベラルも保守もない、白人も黒人もない、われわれは一つのアメリカなんだ」
ネーションの再生を訴えたバラク・オバマ氏が新大統領に選出された。
一時期〈帝国〉やらネオコン(新保守主義)やらが21世紀のアメリカ政治思想を語るタームとして流通していたが、最近はめっきり見かけなくなった。代わりに「ネーション」「国家」といった政治学の古典的な問題が新たな問題として注目されている。
![]() |
思想地図 vol.1 (1) (NHKブックス 別巻) 東 浩紀 北田 暁大 by G-Tools |
例えば、雑誌『思想地図』vol.1 の特集:日本。雑誌旗揚げ(?)の記念シンポジウムでは、東浩紀、萱野稔人、北田暁大、白井聡、中島岳志など、気鋭の若手研究者・評論家がテーマ「国家・暴力・ナショナリズム」討議している。
論者ごとに切り口が異なり、議論がかみ合っていない点もあるようだが、以下のような視点には賛同したい。
①「社会問題」への性急な処方箋でもなく、イージーな人生論でもなく、抽象的な言葉で「現実」を捉えること。思想と現実とを往復する姿勢。
②「社会構成主義」を超えて:「ネーション」は近代以後に「創られた」ものだとする「社会構成主義」はナショナリズムのみならず、ジェンダー・セクシャリティ研究に大きな足跡を残した。だが「想像の共同体」で終わりでいいのか。現代の状況は、その後の国家論・ナショナリズム論の再考を必要としているのではないのか。
(ちなみにハンナ・アーレントもなぜかこういう社会構成主義的文脈で解釈され、フェミニズム系の議論に接続されている点に私は違和感を感じている。)
・議論自体が独創的なものが展開されているとは言い難い。だがいわゆるリベラルvs.コミュニタリアン論争など業界内向きの議論よりは意味があるのではないか、と感じた。
« 首相辞任 | トップページ | 「暴力」とは何か?――アーレントと『共和国の危機』 »
「ニュース」カテゴリの記事
- 映画「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)を鑑賞して(その2)(2014.02.17)
- 映画「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)を鑑賞して(その1)(2014.02.17)
- 宮城教育大学に勤めることになりました(2011.10.20)
- 明治大学130周年記念懸賞論文に入選しました。(2011.07.29)
- 『政治思想研究』に拙稿が掲載されました(2011.05.16)
「政治思想・社会思想」カテゴリの記事
- 映画「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)を鑑賞して(その2)(2014.02.17)
- 映画「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)を鑑賞して(その1)(2014.02.17)
- メディア-ネット社会におけるアーレントの「公共性」(1)(2011.09.13)
- 『人間の条件』補論a: work の政治学(2011.07.16)
- ハンナ・アーレント『人間の条件』を読む(3)――《公共性》とは何か(下)(2011.06.19)
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
こんにちは。いつも興味深く拝読しています。
いくつか質問がありコメントさせていただきます。
・『ネーション』は政治学の古典的な問題なのですか?私が無知なのかもしれませんが、ネーションの問題を正面から学問的に取り組もうとしたのは、ハンス・コーンなど歴史学のアプローチからであって、政治学ではないような気がするのですが。
・社会構成主義について。アンダーソンやゲルナー、ホブズボームといった面々は、このくくりで一緒くたにされているようですが、果たしてそれでいいのでしょうか。ナショナリズムの終焉を歌ったのはホブズボームでしたが、アンダーソンはそんなことは言っていませんし、むしろナショナリズムの肯定的な側面に注目していたと思います。彼の本にはもっと重要な側面が多くあるのに、「想像の共同体」という言葉だけが一人歩きしているのではないでしょうか。
・問題は、ミネルヴァの梟がどこに飛んでゆくかではなく、なぜ夜が来なかったのかということなのでは。個人的には、ナショナリズム論の最前線は、むしろCraig CalhounやRogers Brubakerといった社会学者なのではないかと思うのですが、彼らの仕事についてはいかがでしょうか。
ブログのコメントで長い質問をしてしまって申し訳ありません…失礼になっていなければいいのですが汗
もしお時間があれば、答えていただければ幸いです!ありがとうございました。
投稿: | 2008/11/06 09:00
・不定期更新のアバウトな批評に対し、お詳しいフォロー恐縮です。回答になるかは分かりませんが……。
(1)このシンポジウムで、ルソーや丸山眞男の議論が引かれているように、国民国家の問題をどうするかという問題は、「ナショナリズム」研究以前から、多様な議論があったのではないかと思います。
(2)ナショナリズムの終焉か可能性かは論者によっていろいろあり、仰るとおり議論が必要なのかもしれません。ただこのシンポジウムでの文脈での基本的なスタンス「構成主義≒ネーションの相対化で終わりでいいのか」には賛同したい、というものです。
(3)最前線?としたのは、右と左の論壇とは別に議論する試みを評価したいのと、あまり目新しい議論もない皮肉も半分あったのですが……。私はCraig CalhounやRogers Brubakerについても良く知らないのでご教授感謝します。
投稿: 管理人(石田) | 2008/11/06 12:27
とても早くに返答していただいていたのに、謝意を示すことを忘れていました。申し訳ありません。わざわざありがとうございました。
投稿: | 2008/11/30 11:45
ナショナリズムは当為
ここでは、ナショナリズム(国民国家主義)は「脱国家主義」に対する概念と解釈します。脱国家主義にはコスモポリタニズム、市民社会主義、地球市民主義、グローバリズム、共産主義世界同時革命、アナーキズム等が考えられます。両者を対比して考えた場合、早晩ナショナリズムは消滅して、「脱国家」が実現すると単純に考える人が少なくありませんが、果たして、そうなるのでしょうか。
ナショナリズムは情意に偏重しており、脱国家主義は知に偏重していて、どちらか一方のみでは決して成り立たないもので、両者は重層的に共存するものであり、それ以外にはあり得ないと思います。知の所産を文明と解し、情意の所産を文化と単純に解してみると、知は、その特性上、飛翔して、一般性・普遍性を求めるところから脱国家、情意は、その身体性ゆえに、地に足をつけて、特殊性・個多性を志向するナショナリズムとなる傾向があると思います。国家とは文明を土壌にして文化という花が咲く処と解することができます。
「知は存在」を求め、「情意は当為」を求めるものです。当為のないところには倫理は成り立ちません。しかし、知(純粋理性、悟性)は倫理を決する資格がないにも関わらず、錯覚して、情意を越権し支配しようとするところに深刻な問題が出て来ます。
一国内のナショナリズムと脱国家主義のバランスは、国際情勢によって変るものですが、健全なナショナリズムは、両者のいずれかに極端に偏らないバランスの取れた状態だと思います。
私たちに知・情・意のバランスのとれた人柄・人格があるように、国家にも「国柄」というものがあると思います。
投稿: eegge | 2015/02/07 04:10