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2009/02/24

アーレントと現代① ――斉藤純一『政治と複数性』を読む

政治と複数性―民主的な公共性にむけて政治と複数性―民主的な公共性にむけて
齋藤 純一

by G-Tools

・ハンナ・アーレントの思想、とりわけその「公共性」については現在多様な文脈で解釈が行われている。その特徴は「アーレントと共に/アーレントに抗して」という言葉にあるように、アーレントの思想をそのまま護教論として擁護するのではなく、彼女自身の思惑を超えたかたちでその可能性を読み取る点にある。斉藤純一『政治と複数性:民主的な公共性にむけて』(岩波書店、2008年)もこうした現代的文脈での優れた研究の一つである。

・本書の特徴は、単にアーレントやハーバーマスらの思想を整理したものではなく、現代における「公共性」のリアルな問題から、思想家の議論を問い直している点にある。その対象は、ナショナリズム論、格差社会、戦争責任問題など多岐に渡り、その文脈に照らしてどのような「公共性」の在り方を模索すべきかが考察されている。


・例えば、アーレントの議論では意識的に「政治」と「経済」とが切断され、富の再配分や福祉の問題などが「政治」の領域から除外されており、それを現代政治の文脈にそのまま持ち込むことは大きな問題が存在した。著者である斉藤氏はこの点を批判的に受容し、アーレントの描いた「現れの公共性」(自らの言葉によって他者と対峙する場)と、アーレントの描かなかった「生活を保障する公共性」とを峻別し、この異なる二つの次元で「公共性」を捉えることが必要であると説く(第4章「公共性の二つの次元」)。後者の「生活を保障する公共性」には、N・フレイザーの「ニーズ解釈の政治」が援用され、「生の必要性」は一元的なものではなく、その必要性の解釈それ自体に政治性が存在するとしている。近年では福祉政治の方でも、言説操作の力学が政策過程に大きな影響を持つことが注目されており(例えば、宮本太郎『福祉政治』有斐閣)、そうした点からも「家族の絆」や「自己責任」という形で生の必要を一定方向に再配分する傾向、「言説資源」の偏向に対する注意の喚起は、著者が現代の公共性論の最前線に関心を寄せていることを伺わせるものである。


・第八章「政治的責任の二つの位相」では、アーレントの責任論をモチーフにして、「慰安婦」問題など戦争責任論の問いかけが行われている。ここでは、この「慰安婦」問題に象徴される戦争責任論の根幹が、単なる忘却や「忘却の忘却」にあるのではなく、そもそも関心の払われない「暗闇」におかれてきた「不正義」であるとし、「アテンションの配分=配置(エコノミー)」が問われなければならないとされる(ここでは名指しされていないが、この点には高橋哲哉氏らの「忘却の穴」的文脈での戦争責任論への批判を感じた)。

・この「政治的責任の二つの位相」とは、(1)国家の法的な責任とは異なる「集合的責任」と、(2)自らが帰属する国家に限定されない「普遍的責任」を意味している。(1)において重要なのは、「われわれ日本人」という「能動的主体」の形成(丸山眞男≒加藤典洋的な責任主体)をどう行うかではなく、呼びかけに応答する「受動的主体」の構築である。この応答する「われわれ」と「彼ら/彼女ら」との関係は非対称でありながらも、その非対称的な関係は必ずしも相互性を阻むものではなく、そこから「国民の歴史」に還元されない「公共の記憶」が形成されうると説いている。この「能動的主体」の集合的なナルシズムではなく、応答responseへの「受動的主体」こそが政治的責任(responsibility)として重要であるいう議論自体は必ずしも新しいものではないが、著者は現代日本での責任論の文脈を踏まえながら、この問題が現在進行形であることを強調している。

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