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2009/02/24

アーレントと現代――斉藤純一『政治と複数性』を読む②

 以上のような斉藤純一『政治と複数性』に見られるアーレント解釈が、ヤング=ブルーエルが言う「なぜアーレントが重要か」という問いに応えるものであり、現代の公共性を論じる上で優れた論点を提供していることは疑いない。しかしながら、それを踏まえた上でなお幾つか疑問点も感じた。

 (1)アーレントの議論の特徴が「普通の」戦争犯罪ではなく、「全体主義」という途方もない邪悪さ(evil)を対象としたものであり、それをどれほど一般的なものとして論じることができるだろうか。

著者自身が依拠している「集団の責任」(1968年)で強調されているのは、①政治的な「集団の責任」と、道徳的・法的な「個人の罪」とが異なること、②その上で「全体主義」下の限界状況では(その本来は非政治的な)道徳的な振る舞いが政治的意義を持つ、ということである。このような点から、アーレントは「わたしたちすべてのうちにアイヒマンが潜んでいる」という物言いでの一般化を批判し、父祖や人類の罪を「感じる」という言い方が妥当でないとした。

議論のために一応、ナチスの蛮行と戦前日本のそれとを同じとしたとしても、アーレントが問題としたのは、心からその体制を支持した確信犯ではなく、「そうするしかなかった」と居直り同調した者たちの迎合性であり、「道徳の自明性」の崩壊(彼女の比喩を用いれば「テーブルマナーのように」替えられた道徳)であった(現代風?に言えば「空気の問題」ということだろうか)。従って、「能動的主体」ではなく「受動的主体」での応答の受容という著者の主張は、重要な論点かもしれないが、アーレントの責任論全般とは一応別物であるように思えた。


・(2)「アテンションのエコノミー」とはどの程度の幅が想定されているのだろうか。
著者が批判するのは「能動的≒国民内向的」な責任のアテンションに対して、「受動的≒応答的」アテンションが欠落しているという点であるが、そもそもなぜ「戦争責任論」自体に注目しなければならないかを問うのが「エコノミー」なのではないだろうか。

著者が認めているように、私たちは現代社会のあらゆる情報へ対応できるわけではない。この圧倒的な情報に晒された社会で何が重要かを判断し、取捨選択する力学こそが「エコノミー」と呼ぶべきものであって、そこからすれば「戦争責任など私とはなんの関係もない」というのも一つの(というよりも圧倒的に有力な)「エコノミー」である。その帰結として、「関係ないけど面倒だから一応謝っておく」という偽善的だが功利主義的な対応が有力になることも予想できる(賛同するわけではないが、加藤典洋氏の責任論は、こうした偽善さや功利性を克服しようとしたように思える)。「能動的-主体的」か「受動的-応答的」かの前に、そもそも政治的イシューの多くが「それは私には関係ない」という一言で片付けられることの方が問題であると私は思う。

・従って、アーレントの可能性も単に多様な意見の現れを認める「聴くことの政治」よりも、その「声」が「アテンションのエコノミー」を強力に変動させる契機にある、と私は思う。つまり多様な「空話」が蔓延するなかで、その「空話」を切り開き、「アテンション」の強力な磁場を生み出す一つの言葉こそ、アーレントが「行動」action として論じたことのように思える。どこかに国の代表の演説よりも、名も知らぬ異国の人が語った一言が、ときにその当人の思惑を離れて見知らぬ誰かの心に共鳴し、「アテンション」が変更されること。「テロリズム」という潜在的かつ強力な「アテンション」の政治的戦略に脅かされるなかで、アーレントの思想の現代性はそうした部分にある、と私は考えている。

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