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2009/06/15

もしアーレントが生きていたら?――仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』を読み直す

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)
仲正 昌樹

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・本書は「専門家による解説書」ではなく、入門者向けに「アーレントになり代わって考える」というスタイルで、現代の政治思想を論じたものらしい。なるほど、定番の概説書のようにアーレントの思想を整理したものではなく、著者自身が「もしアーレントが現代社会に生きていたら」という仮想で、議論が展開されている。それはよく言えば自由な構想力に基づくものであり、悪く言えば根拠のない思いこみによる解釈でもある、と言うことができるだろう。この著者の試みはどの程度成功しているだろうか?

・「アーレント理論の“忠実な解説”は放棄して、アーレントの思想の中で特に重要だと思っている内容を、現代日本でもお馴染みの政治・社会問題にやや強引に引きつけながら紹介していくことにしたい」(21頁)。著者はそう宣言して、大衆社会と全体主義、西洋ヒューマニズム神話の解体、過剰な「同情」圧力への批判などに、その現代性を見出していく。

・本書が一貫して問題としているのは、「分かりやすい」対立構図へ誘導するような政治的言論への批判であり、その際に安易な対立構図に回収されない一つの道標として、アーレントの思想が導きとされている。敵/味方、右/左などの従来の“ありがちな”対立構図に加えて、昨年の秋葉原通り魔殺人事件以降に顕著となった格差社会への過剰な「同情」を批判するものとしてアーレントが参照されている。

・だが、必要以上にアーレントの思想が賛美されているわけではない。ありがちな新しい市民運動の担い手やら、差異の政治やらフェミニズムの新旗手やらの「聖人」化された見方を著者はとらない。何かの集団に帰属しない「ひねくれた」思考のあり方を著者は愛すと同時に、それをKYなオバサンという表現で偶像破壊する。当時の学会からもニューヨーク知識人からもユダヤサークルからもアーレントの存在が浮いていたことを考えると、「KY(空気を読まない)」なオバサンというこの著者の表現は的確であると私は思う。また経済的利害に関心を払わない(と解される)アーレントの「政治」は、「学校のHR(ホームルーム)などでの子供の自由討論のようなものの延長」(90頁)という理解も、率直なものであると理解できる。

・そうした著者独自の解釈の提示、アーレントのテクスト用語の羅列に終始せず、真摯にそれを「理解」しようとする試みは評価されるべきであろう。しかしながら、それと同時にその試みが、アーレント自身が辿った思考のプロセスとは別物であり、ときに否定したものであることも確認しておかねばならない。

・例えば、アーレントは著者が解釈したような「公共善」の論議を「政治」としているのではない。『人間の条件』などで提起されているのは、「公共善」の良し悪しや、動機や目的とは別の次元に「政治」が存在するということ、そして「偉大さ」こそが「活動」の指標だということである(志水速雄(訳)『条件』330頁、「公共善」に拘ったのはレオ・シュトラウスであり、この点に両者のポリス論の大きな違いがある)。そうであるがゆえに、そうした「偉大さ」を語る「政治」はファシズム流の「政治の美学」とも結びつく「危うい」ものではないのか、という指摘がマーティン・ジェイ氏や川崎修氏などによって行われてきた。つまりアーレントにおいて問われるべきは、その「政治」が「学校のHR」のような無害なものではなく、逆に危うい「政治の美学」への共犯関係ということではないだろうか。

・むろんアーレントが政治における善悪に無頓着であったわけではない。しかしそれは、著者が論じるような「われわれ自身の中にもアイヒマンがいる」という「分かりやすい」ありがちな議論ではなく、もっと複雑である。アーレントは、①法的・道徳的な「個人」の罪と、政治的な「集団」の責任とを区分し、②この前者の道徳的な規範が容易に書き換えられた点を問題としながらも、③「誰もが罪がある」という論理で「個人」の罪を相対化することは許されるべきではない、という主張を展開している(中山元(訳)『責任と判断』75頁。これについては過去の記事も参照)。「聖人面した裁判官も、心の中では人を殺し・盗み・犯しているのだから、告発された罪人を裁く権限などないのだ」。そうした大衆社会にありがちなシニシズムに対してもアーレントは挑戦したのである。

なぜアーレントが重要なのかなぜアーレントが重要なのか
矢野 久美子

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・「もしアーレントが生きていたら」という仮定は、なるほど確かに興味深い。しかしそうした仮定に立ったものとしては、エリザベス・ヤング=ブルーエル『なぜアーレントが重要なのか』(矢野久美子訳)の方がより周到であるように思える。「もしハンナ・アーレントが二〇〇一年に生きていたとしたら、彼女は書机に直行し、世界貿易センターは真珠湾ではないし、「テロにたいする戦争」は意味のない言葉だと意義を唱えただろう」(14頁)。ヤング=ブルーエルは、この「テロにたいする戦争」という空疎なフレーズで「政治」が論じられる現状と、アーレント当時の反共主義のイメージ操作とを重ね合わせ、彼女が抱いていたアメリカの行く末に対する強い危機感を同時代のものとしている。


・仲正氏にアドヴァンテージがあるとすれば、ヤング=ブルーエルが、アーレントの弟子として礼賛論に傾きがちな点を回避しているという点にあるのかもしれない。両者に共通して評価されるべき点があるとすれば、専門用語(ジャーゴン)だらけで「なぜアーレントは重要なのか」が不明なアーレント研究があるなかで、それを真摯に実直に問い直した点にあると私は思う。

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コメント

仲正です。君は、自分が自分のアーレントの専門家であり、私は専門家でなく、よく知らないで書いている、という前提で論評しているように見えますが、少々失礼ですよ。単に失礼だけでなく、誤読があります。アーレントが公共善に拘った、という風に読めますか?簡略化して分かりやすく書いているので、それこそ“素人”がそう誤解するのは仕方ないかもしれませんが、“玄人”だったら、ちゃんとどういう趣旨で書いているのか読み取ってください。「みんなの中にアイヒマンがいる」なんてつまらないことを書いているというのも、単純な誤読です。これは、「仲正にはこの程度のことしか書けない」、という君の先入観から来る誤読でしょう。
それから、九・一一について語っているヤング=ブリューエルの方が周到である、というのもあまり根拠のない権威主義のように見えますよ。それとも何か根拠ある話ですか?君は、恐らく自分でアーレントの“専門的な本”を書く予定なので、私を少しけなしておきたいのでしょうが、誤読で批判されると、気分を害します。それとも、私を挑発することが目的なのかな? 
新書向けにわかりやすく、やや厳密さを欠く書き方をしましたが、それはプロを名乗る人にけなしてもらうためではありません。

・仲正昌樹さま。拙ブログにコメント有り難うございます。何か「上から目線で読んでおきながら誤読ばかりだ」という印象でご不快のようですが、そうした印象を与えてしまったとしたら陳謝いたします。しかしながら、『法の共同体』などでの先生のアーレント研究があることも承知しておりますし、決して先入観や挑発といったたぐいのものではなく、御著書を読んだ率直な感想です。

 (1)議論の流れで言うと、「利害関係から自由にポリスの共通善のために討論する」(90頁)というアーレントのポリス論は、歴史実証的にみれば根拠のないものであり(114頁)、それは一般には西欧思想の「人間性」復権のプロジェクトと見なされるが、アーレントはその「人間性」への過剰な期待を解体している(116頁)、というのがここの大まかな話だと思います。

ただ、その最初の「共通善のために討論する」というのが妥当なのでしょうか。アキレウスやらペリクレスの葬送演説やら「不死の名声」といったマッチョな話(いわゆる「アゴーン」)が、古代ポリスの「よく生きる」という話と深く関係しているという点(『条件』第27節)をみないと、「人間性」(フマニタス)の議論の前提が違ってくることになるのではないでしょうか。

(2)「アイヒマンが「平凡な市民」だということは、他の「平凡な市民」も同じような立場に立たされたら、彼と同じように振る舞う可能性が十分にある、ということである。言い換えれば、「私」自身も「アイヒマン」になり得る、ということだ」(66頁)。この『アイヒマン』と悪を扱った66頁以降のくだりでは、そうした仮定に対する市民的反発、そして法的な公正としての「正義」と宗教的な「許し」を混同すべきではないという点について確かに言及されています。しかし、最終的に「「自由意志を持ち、自立的に生きており、自らの理性で善を志向する主体」というイメージが現実から乖離するに至った」(70頁)ということは、結局は「われわれ自身の中にもアイヒマンがいる」という話に戻ることになるのではないでしょうか。

・「誤読」だと言われればそうなのかもしれません。ヤング=ブルーエルとの対比についても、両者を読んだ率直な感想でその根拠を「論証」することはできません。ただ以前の御著書『日本とドイツ二つの戦後思想』で以前に私が感じた感銘を、この『今こそ……』から感じることはありませんでした。新書であっても、プロ/アマ関係なく面白いものは面白いと思います。今後判断は変わるかもしれませんが、現時点では以上を補足させて頂きます。

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