「公」のための「投票の秘密」という逆説――田村理『投票方法と個人主義:フランス革命にみる「投票の秘密」の本質』
・民主党の大勝利と自民党の大敗北で終わった先日の選挙結果が、小選挙区制という制度に大きく依拠していることはよく知られている(また小選挙区制が必ずしも二大政党制に落ち着くものではないことも、前掲の杉田敦『政治への想像力』などでも言及されている)。だが「選挙」の問題は、小選挙区制や比例代表制の問題に終始するものではない。例えば「投票の秘密」、投票における匿名という問題も依然として十分に問われるべきものであるように思える。
・田村理『投票方法と個人主義』は、「投票の秘密」が「公共」のために厳密に守られるべきという原理が、なぜ・どのように形成されたのかという問いから、フランス革命期における選挙制度をめぐる物語を鮮やかに描き出す。
・基本的な構図としては、
(1)共同体的全員一致主義から近代的個人主義への移行という枠組みで、革命期において「秘密投票」が制度的に確立されていったが、
(2)同時にまた革命期においても、全員一致を志向する選挙集会は維持されるという過渡的な段階にあり、「喝采による投票」がしばしば行われ、その際の合法性が問題とされたこと。
(3)またその「公開投票」は、必ずしも民衆の側の共同体的全員一致主義への回帰や、あるいはその文盲率に原因があるのではなく、しばしば秘密投票の煩雑さの回避・「緊急性」への対処にあったこと。
・以上を考慮すると、フランス近代革命=「強い個人」(「自分のことは自分で自由に決める」)に基づく〈国家-個人〉の二極構造による近代国家という樋口憲法学の図式を受容できないこと。「秘密投票」の厳守に革命政府がこだわったことを踏まえると、むしろ中間団体などの「集団のしがらみ」から「弱い個人」を護り、公正さを確保することが志向されたと考えるのが妥当であること。
・個人的には、「集会」における投票が不当な圧力を排除するのか/助長するのかというコンドルセらの論争の記述は興味深かった(93~94頁)。コンドルセは集会での演説で「不当に」理性が歪められることを恐れ、郵送による投票を提唱したが、定着することはなかったという。むしろ、集会において手続きを公開することで、投票用紙の水増しや、本人以外の記入を排除するということで、不正と圧力を監視することができることになる。何を秘密にし/何を公開にすることで、「公正さ」が担保されるのかという発想の相違は、現在においても再考すべき価値がある。
・集まること、議論すること、投票することが必ずしも重ならないこと。それを考えるための有益な材料を本書は提供してくれるように思える。
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