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2009/10/20

シュトラウスの倫理学は可能か? ――石崎嘉彦『倫理学としての政治哲学:ひとつのレオ・シュトラウス政治哲学論』

倫理学としての政治哲学―ひとつのレオ・シュトラウス政治哲学論 (叢書フロネーシス)倫理学としての政治哲学―ひとつのレオ・シュトラウス政治哲学論 (叢書フロネーシス)

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・お仕事で書いた書評が『図書新聞』2938号に掲載されました。「レオ・シュトラウスの倫理学は可能か?」(石崎嘉彦『倫理学としての政治哲学:ひとつのレオ・シュトラウス政治哲学論』ミネルヴァ書房、2009年)


・石崎氏は多くのシュトラウスの邦訳を手がけてきており、その点でシュトラウス研究の先駆者といっても過言ではない。本書もそうした点で単なる「彼はネオコンの教祖だったか?」という狭い文脈に留まらず、シュトラウスの思想を入念に辿り、多用な論点について議論が展開されている。しかしながら、「批判的にシュトラウスを読む」という視点がほとんどないことに違和感を感じざるを得なかった――問題関心のズレといってしまえばそれまでなのだが。

・例えば、過去の記事でも取り上げた Shadia B. Drury のシュトラウス研究について。個人的にはやはりこのDruryをどう扱うかが重要だと思うのだが、本書では「そういう研究もある」という風にしか言及されていなかったのが残念だった。

・Druryの主張はラディカルで明快である。シュトラウスが語るプラトンやソクラテスへの回帰はホントウはまやかしで、真の教えは別にあり、ニーチェ流の「力への意志」こそがその思想的中核だ(それがネオコンの思想と結びつく)というものである。シュトラウスの言う「公教/秘教」(=オモテの一般の教えとは異なる、ウラの読み方がある)というアプローチを、シュトラウス自身のテクストに当てはめて読むという人はいなかったのではないだろうか。

・私は、Druryの解釈には同意できないにしても、斬新な研究であり、「シュトラウスをどう論じるか」を新しい段階へ推し進めたのではないかと思っている(この点については拙稿「「全体性」としての政治、「世界性」としての政治――レオ・シュトラウスとハンナ・アーレントにおける「政治」と「哲学」)参照。
Druryのような異端的?な解釈がでてくる背景には、シュトラウスの言う「古典的合理主義の再生なんてホントウにできるの?」、というある意味健全な懐疑があり、そういう懐疑があって「いや彼のホントウの教えは別にある」という解釈があるのだろう。だから、そうした懐疑を踏まえずに「シュトラウスが現代社会を救う」ような主張はできないのではないか思える。著者のシュトラウスへの懐疑と批判を別の機会に知りたいと感じた。

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