スピノザ協会第51回研究会――柴田寿子『リベラル・デモクラシーと神権政治』合評会
・スピノザ協会第51回研究会が、11月7日明治大学和泉キャンパスで開催された。私はスピノザのことはほとんど知らないし、会員でもなんでもないが、お世話になった柴田寿子先生の遺著『リベラル・デモクラシーと神権政治』(東京大学出版会、2009年)の合評会を行うということで聞きにいった。→スピノザ協会
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・本書の特徴を一言で言うならば、「リベラル・デモクラシーによる政治」と「啓示による政治としての神権政治」との対立は、「リベラルか/神権政治か」という二元論に収まるものではなく、例えばリベラル・デモクラシーの中に原理主義的なものが入り込んでいるという問題など、現代ではより複雑な様相を呈しており、改めて再考すべき重要な問題であるというものである。
・その具体的な問題提起は、政教未分離国家による紛争、宗教テロリズム、現代社会でのカルトの氾濫という文脈に留まるものではない。リベラル・デモクラシーは、神権政治に対して世界史的に勝利を収めた(=「歴史の終わり」)と言って済むものではなく、それ自体が対峙し・克服する(はずの)宗教的原理主義と結合して、帝国主義化する危うさ(=ネオコン化)を孕んでいる。本書では、この「リベラリズム/神権政治」の境界の問題について、スピノザの『神学・政治論』、またそれを20世紀において再考したカール・シュミット、レオ・シュトラウスらの政治神学を題材としながら、批判的な思索が展開されている。
・最初の報告者・森政稔氏は、以上のような点を踏まえた上で、とりわけ第7章「構成的権力論と反ユダヤ主義――力と法をめぐるシュミットとスピノザの邂逅」に注目する。ここでは①シュミットが、A・シェイエスの「憲法制定権力」の先駆者としてスピノザに注目し、その natura naturans(能産的自然) /natura naturata(所産的自然)を「構成的権力/構成された権力」として憲法学的に再解釈したこと、②この議論は、ポストモダンの文脈でネグリのスピノザ論において左派的文脈で反復されている(構成的権力=マルティチュード)ものの、③元々のスピノザのテクストに従うならば正しくない、という点が論じられている。「民衆の構成的権力を神的に実体化することは、スピノザ自身が主張した哲学的認識と政治神学的認識との分離……という原則に明らかに抵触している」(p.164)。このような安易な「政治神学」への懐疑、ポストモダンでも以前として続く「超越的なもの」の要請を慎重に考察する態度こそ、本書の重要性であると森氏は指摘した。
・次の報告者・桜井直文氏は、本書のスピノザ解釈、なかでも「数学的確実性(mathematica certitudo)」とは区分される「道徳的確実性」(moralis certitudo)の解釈(p.76,p.99)が元のスピノザのテクストに沿って妥当と言えるかという批判な検証が行われた。私は門外漢でこの検証は専門の方に委ねたいが、柴田先生の研究を継承・発展させていくために、やはりこうした真摯な批判も必要であるように思えた。
・最後の報告者・服部美樹氏は、主として本書の編集作業に携わった経緯について、興味深いエピソードを交えて報告があった。壮絶な闘病生活を送りながらも、病室で一所にテレビドラマを見たり、歌を歌ったりなど、最後まで明るく振る舞ったという話には感銘を受けるところがあった。本書の刊行のために力を尽くされた服部氏に改めて感謝の意を表したい。
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