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2009/12/23

第15回 政治哲学研究会――石崎嘉彦『倫理学としての政治哲学』をめぐって(2)

・司会者 飯島昇蔵氏からは、「異種混交」の中身の具体性について疑問が提起された。多様な知を統合するというのは方向性としては正しいとしても、それは例えばポリスの学とオイコスの学を統合するということも含むのか? この指摘もこれまた真っ当な批判であるように思えた。

・この「全体の知」を取り戻すというシュトラウスのプロジェクトの危うさについては、拙著『公共性への冒険:ハンナ・アーレントと《祝祭》の政治学』のなかでも触れた。拙著ではシュトラウスとアーレントにおける政治-哲学の在り方について、「全体性」と「世界性」という言葉で対比を行った(第7章「政治」と「哲学」のあいだ――「全体性」としての政治、「世界性」としての政治)。

・例えば「ソクラテスとはどういう人か」を問うとき、それは「哲学者」という画一的なパースペクティヴよりも、「ソフィスト」「アテナイ市民」「政治家」「指揮官」という複数の多面的なパースペクティブにおいてその「全体」の像を捉えることができよう。実際シュトラウスはプラトン経由のソクラテス像のみならず、クセノフォンの目から見たソクラテスのプロフィールにも関心をもち、研究書を残している。

・こうした手法は、対象がソクラテスという一人の人物であれば部分的に有効であるとしても、それと同じようなかたちで、ポリスの学(政治学)を論じることはどれぐらい可能だろうか。「ソフィスト」ソクラテスと「哲学者」ソクラテスが重なり合い/矛盾することは理解できるとしても、政治の領域で重要なのはその異なるパースペクティヴがどのように統合されるかという力学に他ならない。多様な学知は「自然に」統合されるものではなない(卑近な例では、「有識者」とされる人たちが行った「事業仕分け」に対する、大学研究者や学会の猛反発が挙げられよう)。部分を越えた「全体」への統合は必要であるとしても、それはシュトラウスの哲学に基づいて行えるかは疑わしい。

・一人の出席者からは、シュトラウスの古典の扱いについての質問が提起された。シュトラウスは過去の思想自身が理解したように、そのテクストの「注意深い読解」を行わなければならないとしたが、それはどこまで徹底されたのか? 端的に言えば、西洋には文献学(philology)の膨大な蓄積があるが、それをシュトラウスどこまで踏まえているのか

・この点もまた、とりわけ「公教/秘教」的解釈に示されるシュトラウスの方法論に対して核心的な問題を提起しているように思えた。シュトラウスの「秘教的」解釈とは、
 (a)解釈は、過去の哲学者の思索をその者自身が理解したように理解することを目指すものであるが、
 (b)哲学の知識は、意見に基づく社会に対して危険なものがある場合があり、
 (c)そのため哲学者の真意はしばしば分かりにくく隠されていることが多いので、
 (d)細部についての「注意深い読解」「秘教的」解読を行わねばならない、
というものである(『迫害と著述の技法』などでの議論の大雑把な要約)。こうした方法論はどこまで意味があるだろうか。

・テクスト全体の整合性やその文脈を考慮することで、その真意がより明らかになることは疑いない。しかしながら、テクストの「隠れた」意味を探るという手法は、一般の実証主義に収まるものではなく、「学術性」の枠組みから逸脱すること、そのことへの批判については過去の記事で触れた。それに加えて、ここではその所謂「注意深い読解」が徹底されていないのではないのか、という問題点も付け加えることができるだろう。

・要するに、過去の哲学者の思索をその者自身が理解したように理解するのであれば、テクストの「隠れた意味」を云々する以前に、そのテクストの成立の経緯を検証することが先ではないのか。古代の文献学や史学を少し学んだ者なら、現存するアリストテレスや三大悲劇作家のテクストの多くが失われていること、またそれに比べて保存のよいプラトンでさえも、多くの写本での異読や危うい推測を経て現代われわれがアクセスできるものになったことを知っている。「当初の読みそのものに立ち返ることは、おそらくけっして完ぺきには達成されえない理想でしかない――たとえ、いくつかの競合する異文が原著者自身によって伝承の過程に導入されたのかもしれないという、無視しえない可能性には目をつぶるとしても、である。」(D・セドレー(編)内山勝利(監訳)『ケンブリッジ・コンパニオン:古代ギリシア・ローマの哲学』26頁)。

古代ギリシア・ローマの哲学―ケンブリッジ・コンパニオン古代ギリシア・ローマの哲学―ケンブリッジ・コンパニオン
David Sedley

by G-Tools


・この文献学の問題をシュトラウスが知らなかったり無関心であったとは到底考えられない。司会の飯島氏のフォローによると、シュトラウスが用いたのはLoebの対訳版であり、翻訳においてこだわったのは、用語の同一性と逐語訳・直訳だったという話だが、それによって以上の問題が解消されるわけではない。そうした点も踏まえて、その「公教/秘教」の問題を再考する必要があるように思う次第である。

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