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2010/06/26

「コミュニタリアニズム」の自己検証――マイケル・サンデルのハーバード大学講義(2)

【コミュニタリアニズムについて】
・サンデルの思想スタンスは「コミュニタリアニズム」として紹介されてきた。私自身は「コミュニタリアニズム」にはあまり関心がなかったが、重要なのはそのサンデル自身の「コミュニタリアニズム」の主張よりも、その批判の議論であると感じた。サンデルは「コミュニティが大事」系の退屈な話に満足せず、その「コミュニティ」とは何か、正義と善とのあいだでどのような位置にあるかを検証しており、それこそ「リベラルかコミュニタリアニズムか」以前に考えるべき興味深い問題であるように感じた。

・例えばサンデルは「コミュニタリアニズム」への批判として、(a)自己が帰属する「コミュニティ」が複数同時にあり、その「善」同士が対立するという問題、裏返せば(b)帰属する「コミュニティ」の「善」の相対性を問題として確認する。このことは、コミュニティという集団の恣意性と偶然性――ルームメイト、家族、共同体、大学、州、国家、人類(第11回Lecture21)――が前提として存在する。サンデルは、大学よりもルームメイト、見知らぬ人よりも家族、祖国よりも故郷を重視するありがちな「コミュニタリアニズム」に満足せず、単に偶然所属する「コミュニティ」への忠誠ではなく、普遍的な正義と合致するような「善」こそが重要であるとする。

リベラリズムと正義の限界リベラリズムと正義の限界
マイケル・J. サンデル 菊池 理夫

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・このサンデルのスタンスは、このハーバード大学講義以前に主著『リベラリズムと正義の限界』で言及されているテーマでもある。第二版への序「コミュニタリアニズムの限界」ではこの点を明快に論じている。ここでは正義を善とつなぐ構想として、(1)特定のコミュニティ・伝統で尊重される価値から道徳的効力を引き出すものと、(2)「正が推進する企図あるいは目的の道徳的重要性に、正の論拠を依存させる」という目的論的なものがあるとし、単なるコミュニティの習慣でしかない(1)では不十分であり、(2)が重要であるとする。そしてそれはアリストテレスに由来するものであるが、「厳密に言えばコミュニタリアンではない」(vii頁)と論じている(Lecture23でも同様のことが語られる)。「権利」の論拠が価値中立的だというリベラルも、「権利」を偶然その社会で流通する価値と結びつけるコミュニタリアンの議論も誤りであり(viii頁)、自己の知的試みはこれらとは異なる第三の道であるとする。

・このサンデルのスタンス自体は、伝統や家族を強調する凡庸な「コミュニタリアニズム」とは一線を画す点で、考えるに値するものだろう。だがこれらと異なるサンデル自身の第三の道、「権利はそれが役立つ目的にある道徳的重要性にその正当化が依存する」という主張がどれほど有益で説得力あるものなのか、私にはよく分からなかった。

・具体的事例として挙げられるのは、例えば白人至上主義者の人種差別的見解と1950~60年代の黒人の公民権運動を、同じ表現の自由として認められるべきかという問題である。そして後者を擁護するために「コミュニティ」ではなく「目的」が強調され、訴訟を裁定する判事も「権利」を最初に正当化する道徳的原理に立ち返ることが必要であるとされる。最終回の講義で取り上げられた同性婚の問題(第12回Lecture23)でも、その同性婚を認めた判事は、一見すると中立的であるように見えながらも、実は一定の道徳的原理に従っていることが確認される。だが結局のところ、こうした話はサンデルの議論がなくても自明な話ではないだろうか。

・同性婚の問題を取り上げながらも、サンデルは肯定派(結婚の目的=パートナーへのお互いに対する恒久的な約束とするリベラルな判事)にも否定派(結婚の目的=生殖とするキリスト教派)にも立たない。むしろ「目的」としてどちらが「正しい」かを一つの原理に還元することは拒絶され、メタレベルの議論、すなわちその善の多元性を熟議・討議する弁証法、ソクラテス的対話が持ち出される。講義は最終的にその対話の継続という点で幕引きとなる。こうした話もそれ自体同意すべき点は多いが、内容自体はよく聞く話であり新奇なものはない。要するに、コミュニティ伝統万歳型の「コミュニタリアズム」を越える方向を述べながらも、その先の内容は不明瞭のように思えた。実際サンデルはこの方面で凄い論文を書いてるのかもしれず、私が不勉強なだけかもしれないが、いずれにしても、コミュニティの限界や友愛の問題など「コミュニタリアニズム」には問うべき問題がまだまだあるように感じた次第である。

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コメント

先生は「対話の継続」という結論にご不満のようですが、私は共感を覚えました。サンデル先生も言っていましたが、哲学は何世紀にもわたって議論しながら、いまだに結論を出せていません。この事実は、人間は自らの幸福について、或いは正義とは何かについて、遂に「結論」を得ることは不可能であると言うことだと思います。できることは、議論することだけです。議論が停止し、結論が出されたとき、ヒットラーが出現するのでしょう。善の多元性を容認できること、その寛容さだけが可能なのではないでしょうか。民主主義の原理もそこにあると思います。

森の住人さま。コメント有り難うございます。仰る通り、議論が大切だとは思いますし、結論に至るということは多分ないと思います。しかし、例えば「対話」に応じないということで、その応じない側を「不正義」にすることも考えられますし、「対話」自体が一つのアメリカ的な価値観の押しつけだ、という批判も成り立ちます。また「正義」とはもっと野蛮であって、応報や復讐、制裁という暴力と結びつくものなのではないでしょうか。私も多元的で寛容な社会を望みますが、そうした点がサンデルの話のなかでは薄いような印象を抱いた次第です。

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