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2010/09/21

「表現の自由」が息継ぎする空間を求めて(3)――毛利透『表現の自由:その公共性ともろさについて』

(3) 「表現の自由」における「匿名」の意味について


・「表現の自由」はしばしば「プライバシー」を侵害する点が問題とされる。だが「表現の自由」と「プライバシー」とは必ずしも対立関係にあるのではない。むしろ「表現の自由」のために匿名性が保護され「プライバシー」が守らねばならない場合も多い。それゆえ著者は「公論の形成のために何でもオープンにすべきだ」というありがちな主張には同調しない。というのも「表現の自由」の歴史を顧みれば、社会一般やコミュニティに受容されない意見を公けにするのは一部の勇者であり、その状況では一般市民は圧倒的に沈黙を強いられるからである。著者は「表現の自由」を考える上で、この「萎縮効果」chilling effect の重要性を強調する。

・この点で著者が注目するのは「真理を促進するのは、露見か匿名か」を問うた憲法学の泰斗芦部信喜である。1960年前後にハーバード・ロースクールで学んだ芦部は、マッカーシズムの爪痕が残るアメリカ社会を目の当たりにし、「思想表現の強制的な露見(disclosure)を求める立法が増大」していることが「表現の自由」を抑圧するものとして捉えた。強制的露見が「思想の自由市場」によって真理を促進するものではなく、むしろ逆に開示圧力によって少数意見を敵意にさらし、妥当性のある異論が抑圧され歪められる。要するに、国家→社会(私人)のみならず、社会→私人においても迫害や悪意は働く。「共産主義者」というレッテルに動じないのは一部の勇者であって、普通の市民はそのことから予想される不利益を恐れて沈黙を選ぶ。その点で「匿名の権利」が保護されねばならないとしたのである。

・この場合に問題となるのは、直接的な思想弾圧や結社禁止ではなく、間接的な「表現の自由」の抑圧、すなわち公益上の理由による団体名簿の開示や、証言強制、公職に就く者の宣誓強制であった。このアメリカでの「強制的露顕」の風潮に対して、リベラル派のアメリカ最高裁(ウォーレン・コート)が苦心しながらプラグマティックな対応を行っていたが、芦部はこのリベラル派の判例を土台としながら、「表現の自由」における「萎縮効果」の意味を理論的に体系化していった。この「萎縮効果」論が「表現の自由」に占める位置は(アメリカでも日本でも一応憲法学で登場するものの)、アメリカのマッカーシズムという当時のコンテクストが風化することで、そのインパクトもまた忘却されてきたと著者は語る。

・欧米人は個人主義的で自分の意見を明確に主張し、日本人は体制順応主義的で他人の顔色をうかがうというが、欧米人も絶えず「空気を読む」のであって、共同体の「空気」とは無縁に自分の主義主張を貫ける者はほとんどいない。社会やコミュニティの雰囲気は言論の流通や速度の前提条件であり、その言論から生まれる公論の内容や帰結に影響を与える。従って民主主義社会で「表現の自由」が重要なのは、それが孤立した個人の自由の行使としてよりも、それが「萎縮」することでもたらされる社会的悪影響を回避するためなのである。

・このことは決して対岸の火事の問題ではない。著者は本論第7章での「立川反戦ビラ訴訟高裁・最高裁への批判」で、日本での「表現の自由」の危うさについて言及している。この事件は、ある運動家が自衛隊のイラク派遣反対を訴えるビラを防衛庁宿舎に投函し、それが私有地への立ち入りや住民の不快感などを理由として住居侵入罪として起訴・処罰(一審無罪・控訴審有罪・最高裁棄却)されたものだが、こうした処罰は憲法21条が保障する表現の自由に反すると著者は語る。判断にあたっては、市民活動の重要性とその萎縮が考慮されなければならないが、東京高裁や最高裁がそれらの配慮を行ったようには見受けられない。著者自身はこの反戦ビラの主張自体におそらく賛同していないが、こうした極端な主張を行う少数派の言論こそ保護されねばならないのであって、表現の自由が窒息しないための「息継ぎする空間」の必要性を強く訴えている。

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