第35回社会思想史学会(1)
・社会思想史学会第35回大会が10月23日24日、神奈川大学横浜キャンパスで開催された。
全体のプログラムはこちら。
・個人的に興味深かったのは、二日目のセッションⅠ「戦後思想史再考」、セッション0「制度の政治思想史」であった。
「戦後思想史再考」
世話人:中野敏夫 会員
司会:初見基 会員
報告者:中野敏夫 会員、三島憲一 会員
・いわゆる「日本と西欧」「東と西」という対比を前提として構築された戦後の思想史(社会思想、政治思想、経済思想)では、あるときは「遅れた日本」の「近代化」が叫ばれ、またあるときは西欧の近代批判・超克として「日本」礼賛論が展開されてきた。やはりそれは一度考え直す必要があるのではないか、というのがセッションの大きなモチーフのようである。
・三島会員は「和辻哲郎の象徴天皇論をめぐって」というテーマで和辻の天皇論を取り上げ、それを「日本と西欧」的対比の一つの病として位置づける。戦前の現人神=天皇論から、終戦後に象徴天皇論に和辻の議論は大きく転換した。この転換を大きなスキャンダルとして取り上げ批判した研究(子安宣邦)もある。三島報告はそれを踏まえたうえで、外から見ると大きな転換であっても、和辻自身のなかでは連続しており、そしてこの連続性こそが問題として注目する必要があるとする。
・そこで大きな問題となるのが、和辻ら大正教養主義あるいはオールド・リベラリズムでのドイツ観念論の受容の在り方である。三島氏はドイツ思想の泰斗で、ドイツ観念論からニーチェ、ベンヤミンまで造詣が深いが、その三島氏から見ると、和辻の受容はカントもニーチェも同じようなものとする杜撰なものだったらしい。このドイツ観念論の怪しげな受容(例えば「生ける全体性」)が、「国民の全体性の表現者」としての天皇を論じる回路となり、あるときは聖なる日本と尊王を語る装置として、あるときは日本の神話とポツダム宣言とを結びつける奇っ怪なものとなった。
・こうした問題は和辻の問題にとどまらず、大正教養主義、オールド・リベラルが抱えていたものであり、個人-日本-人類の共存が矛盾なく予定調和するという発想にその問題の根幹があるとされる。その点では、東大総長を務めた南原繁らにも同様の問題に囚われていた可能性があるという。
・私は日本思想については論評できるほど知識もないが、政治学における西洋思想の受容という点で示唆を受ける点が多々あった。丸山眞男のカール・シュミット受容と戦後民主主義とのつながり、その現代日本政治学への影響なども考えるべきテーマであり、またこの点は丸山に限らず多方面で考えるべき論点があるように感じた。
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