第35回社会思想史学会(2)
「制度の政治思想史」
世話人:太田義器 会員、小田川大典 会員、安武真隆 会員
司会:太田義器 会員
報告:犬塚元 会員「制度・型・作法:木村俊道『文明の作法:初期近代イングランドにおける政治と外交』(2010)を読む」
古城毅 会員「政治思想研究・フランス史学・宗教学の交差点としてのバンジャマン・コンスタン:堤林剣『バンジャマン・コンスタンの思想世界』(2008)を読む」
討論:木村俊道 氏(非会員)
堤林剣 氏(非会員)
![]() | 文明の作法―初期近代イングランドにおける政治と社交 (MINERVA西洋史ライブラリー) 木村 俊道 by G-Tools |
(木村先生から『文明の作法』献本頂きながら無精のためサスペンド状態でした。献本有り難うございました)。
・本セッションは、報告者が書評とコメントを行い、執筆者がそれに対してリプライするという形式で行われた。聴者の側もこの『文明の作法』と『バンジャマン・コンスタンの思想世界』を読了していることが求められたが、報告者の解説で概要と研究意義は理解可能であった。私は『文明の作法』しかフォローできていないので、以下ではそれについてコメントしたい。犬塚氏の書評報告はそのまま学会誌に掲載できるほど完成度が高いので、以下の概要でも参照している。
・本書での考察対象となるのは初期近代イングランドにおける「文明の作法」「civilityの言語」の系譜である。civility とは「洗練」「礼儀」「礼節」「上品」といった言葉で示される作法の集合であり、「暴力と感情を抑え、アクターによる日常的な交際や共存を可能にする技術」である。このcivility で描かれる作法の体系は、ホッブズ・ロックらの社会契約論の right の言語ともポーコックが描いた virtue の言語とも異なる形で政治の実践と深くかかわるものであった、とされる。
・civilityの具体的な中心となるのは「宮廷」courtであり、この宮廷の社交世界での身体な所作・振舞いこそが、他者との共存を可能にし、秩序を形成する技法であった。つまり宮廷は、議会の発展や市民の育成を抑圧するという近代デモクラシーへの否定的側面よりも、挨拶・言葉づかい・身体的所作などの規定において「異質な他者が相互に対面する「国際」的な人間関係の舞台」(p.24)であったことに注目する必要がある。当時の国王は異国の出身者も多かったが、この王族や貴族、宮廷人や顧問官といった多様な人々の行動様式を具体的な「目に見える」形で統御する技法こそ、近代初期の政治の実践において重要な位置を占めていた。
・したがって社会における洗練やマナーズは、ポーコックが語るように商業社会の進展に伴う側面よりも、ルネサンス期・初期近代の「宮廷」のcivilityから継承された部分が大きいと著者は理解する。むしろこの civility は、その後の「近代」では civilizationにとって替わられて後景に退き、デモクラシーと産業革命の中における「進歩」として「文明」が理解されることで忘却されることになった、と言う。
・以上の『文明の作法』を犬塚氏は極めて高く評価しながらも、以下の点について疑問を提示する。(1)言説の次元の「文明の作法」と、ハビトゥスの次元の「文明の作法」とは同一ではなく、区分する必要があるのではないか、(2)civilityの言語というパッケージ化は、それぞれの語彙が本来異なる起原に由来するものを同一化する危うさがあるのではないか、(3)第五章ハリントンを論じる章では、上品さ・洗練・礼儀という意味での「文明の作法」がほとんど登場しないのではないのか、(4)「宮廷の政治学」や「文明の作法」は、どのようなかたちで「人文主義」の精神的態度と結びついているか、という問題が提起された。
・本書『文明の作法』からは勉強になる点が多いが、私が感じたのは、この政治における作法・ハビトゥスの普遍性という点、また中世キリスト教・封建社会との連続性という問題であった。
・civility がcivilizationにとって替わられたことで「文明の作法」は歴史の表舞台から後退したとされているが(p.12)、そうなのだろうか。著者は研究対象を初期近代イングランドに限定し、現代的価値や意義に対しては一応禁欲的な態度を取るが(p.8)、これが西洋だけでなく東洋にも共有されること、議会演説の場にも見られること(p.9)を示唆していることを見ると、やはりそれが政治の実践において普遍性を持つことを前提にしているようにも思える。現代日本でも、政治における「演技」の空間は、一方は皇居での認証式・叙勲式にその典型があり、また他方では議会での乱闘騒ぎをその空間の解体として眺めることができるだろう。従って「文明の作法」は、初期近代の「宮廷」バージョン型から、「議会制民主主義」バージョン(=「敵」の話を理性的に聞き討議するという演劇)へと変質したのではないのか、という印象を受けた。
・またこの「文明の作法」は、ルネサンス期から初期イングランドのコンテクストを強調し、キリスト教世界はそれを外面性・形式性を批判する側として位置づけられる(p.12)。しかし「作法」「外面性・形式性」にこだわり続けたのがキリスト教社会であり、そうであるならむしろ両者は対立的なものよりも親和的なものではないだろうか。例えば池上俊一『儀礼と象徴の中世』では、「カノッサの屈辱」も紛争や危機を回避する一つの儀礼であった可能性を論じている。『文明の作法』で参照されるハーバーマスの演劇的公共性が依拠するのはC・シュミットの「再現前」論(この辺は和仁陽『教会・公法学・国家―初期カール・シュミットの公法学』を参照)だが、このことは宮廷の「演劇」と教皇の「演劇」との近さを物語っている。そうした点で「宮廷」の作法の系譜は、キリスト教社会とのつながりもあるのではないか、と感じた。
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