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2011/01/24

「サンデル白熱教室」再考(1)――政治における「美徳」とは何か

・政治思想に流行語大賞があるならば、去年は間違いなく「白熱教室」だったと思う。
「白熱教室」という言葉自体アナクロでいかにもNHK風(失礼)なのだが、この誰も使わない一般名詞がサンデルの政治哲学と結びつき固有名詞として流通するようになった。政治哲学という固いテーマに学生はともかく、一般のサラリーマンやOLは関心がないという(私も含めた)思いこみは、サンデルとNHKによって見事に覆された。このことは喜ぶべきことであり、政治哲学が狭いサークルで重箱の隅をつつく話ではなく、広くアクセスされるものになって欲しいと思うのは私だけではないだろう。

ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(上)ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(上)
マイケル サンデル Michael J. Sandel NHK「ハーバード白熱教室」制作チーム

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その点で問題なのは「サンデルは何も分かってない」風の否定よりも、逆に「分かりやすい」サンデルの話をさらに「分かりやすく」しようとすることだと思う。後者は「サンデル」を薄めて頒布すること自体が目的になってしまい、結果的に中学校道徳の説教じみた話に堕してしまいかねない。確かに政治哲学は専門家のものではなく、誰もが日常的に突き当たる「問い」に根ざすものであるが、その「問い」も「答え」も必ずしもサンデルのものである必要はない。「君は功利主義者だね」や「私はコミュニタリアンです」というステレオタイプは議論を整理する出発点であって、その「主義 ism」を確認することは手段であって目的ではない。したがってこの「問い」の問題背景を捨象した「主義」の空疎な解説などでは、「やっぱり政治哲学はつまらない」という地点に戻ってしまうだろう。

・そういうわけで、便乗なり二番煎じなりも結構なのだが、やはりそれにはアレンジなり一工夫なりが必要だろう。それよりはサンデルを読んで感じた疑問を自分で問い直していくことのほうが建設的だと思う。私の疑問についてはすでに過去の記事で若干言及したが、今回は①アリストテレス「美徳」virtueの問題、②戦争責任の問題について(ロールズ正義論の原爆投下批判との対比)について昨年夏に来日公演した際の番組(ハーバード白熱教室@東京大学)なども参照して補足しておきたい。


・サンデルはアリストテレスの「美徳」arete を高く評価するが、この「美徳」とは一体何だろうか。何が「美徳」で何が「悪徳」なのだろうか。

『これからの「正義」の話をしよう』では「美徳」についていろいろ語られているが、論点を強引に整理すると
 (1)「美徳」の存在は人が憤りを感じる「悪徳」によって確認できる。
 (2)「美徳」の言葉・価値規範は、損得(功利主義)や権利(リベラリズム)のものと異なる。
 (3)「美徳」は単なる知識ではなく具体的状況での「実践」において体現される。
 (4)「美徳」はコミュニティによって異なり、また「目的因(テロス)」と「名誉」という二つの価値規範が対立する場合には論争となる。

 (1)の事例として挙げられているのが、冒頭で言及されるハリケーン災害下での便乗値上げ、ウォール街の高額報酬などの「強欲」という悪徳である。(3)はヴァイオリン演奏のようなものとして論じられている。

・サンデルの「美徳」論の慧眼は(4)の点にあるように思う。事例としては、PTSDの兵士は名誉負傷勲章に該当するか、車椅子のチアリーダーはその役割を果たすことができるか、障害をもつゴルファーにゴルフカートの利用を許可すべきか、といった話が紹介されている(第8章)。
いずれも「よい兵士」「よいチアリーダー」「よいゴルファー」とは何かという点で「目的因」と「名誉」とが対立し、「何がよい」のかという「美徳」は一義的に定まらない。

・この「目的因」と「名誉」との不一致という論点自体は興味深いのだが、ただそれがアリストテレスにあったかどうかは怪しい。肉体的健全さがギリシア的価値観の一つとしてあり、『ニコマコス倫理学』では容姿の良さが「幸福(エウダイモン)」の一つであったこと(第I章第8節)を想起すると、サンデルの問題提起自体がアリストテレスには不在だった可能性が高い。

・サンデルはおそらくこのズレを前提としながらも、アリストテレスの問題設定をリニューアルしようとしたのかもしれない。だが提起される問題(ウォール街の強欲さ、兵役と民間軍事会社、代理母、同性婚など)の多くが「美徳」や「公共善」に訴えかけることで、何か新しい見通しが表れるようには思えない。公立学校、公園、公共交通手段の充実という具体的提言(343頁)はコミュニタリアンの専売特許ではないし、青年にボランティアを強制するナショナルサービス(340頁)は保守派が好きそうな話である。功利主義やリベラリズムの背後にあるモラルや美徳を問うことは必要だろう。だが失われたモラルや美徳を政治に取り戻そうという提言は、退屈か威圧的かのどちらかに陥りがちである。

・個人的にはむしろ、この「美徳」を強調することのマイナス面、「自己犠牲の精神」「男らしさ」「リーダーシップ」のイメージ作りで失われるものを考える方が面白いと思うし、またこの「美徳」のマイナスを相対化するものこそ、サンデルが論じない「美徳」(例えばオデュッセウス的な「狡猾さ」)であると思うのである。(またアリストテレスも「美徳」以外にこそ考えるべき論点がある。ポランニーの「アリストテレスによる経済の発見」はその代表だし、アリストテレス「自立」」autarkeiaについて注目した拙稿は『政治思想研究』に近々掲載予定である。)

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