「政治学」に何ができるか(1)――国家と個人の自足性(アウタルケイア)という問題
・人は一人では生きていけない。人が生活するのに必要な物資・サービスが確保され、それが一時的な利害関係ではなく恒常的な信頼関係に支えられた状態。アリストテレスはそれを「自足性(アウタルケイア)」と呼び、ポリス(国家=社会)がその実現単位であるとした。人は生活のために家庭(オイコス)を形成し、それが集まり村となり、さらに集合してポリスとなる。このように人が物質的・精神的な充足を得るためにコミュニティ(群れ)を必要とし、それが(単なる人為的な約束事ではなく)自然本性に根ざしていることは、有名な「ポリス的動物」という言葉で表現されている。
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・近代国家は「ポリス的動物」ではなく自立した個人から出発し、その生命・身体・財産の保護を目的としながらも、このアリストテレスのアウタルケイアを力強く継承している。国家の運営はしばしば船の舵取りに喩えられ、また個人の自己支配と国家の自立とがパラレルなものとされる(一身独立して一国独立す)。
・だが果たして「自足」の単位はポリス-国家であらねばらないのかは疑問も多い。分業に基づく相互依存はアリストテレス(あるいはプラトン)の中に既にあるが、アダム・スミスと決定的に異なるのはそれをポリス内部で自己完結したものにしようと構想した点にある。だがアテナイ・ポリス自体穀物を長く輸入に頼っており、その点をアリストテレスが知らなかったはずがない。プラトンと違い外国人であったアリストテレスにとって、ポリスの「アウタルケイア」は自明なものではなかったはずであり、この点になぜこだわったのかは大きな疑問である。
・アリストテレスの真の偉大さは、個人の「自足」と国家のそれとがしばしば一致しないこと、つまり個人の幸福のためにポリスがあるのか、ポリスの自立のために個人があるのか、その矛盾を顕わにしたことにある、と私は思う。『ニコマコス倫理学』のテーマは人が「幸福(エウダイモン)」であるとはどういうことかだが、この窮極の「自足性」である「幸福」は、『政治学』でのポリスの「自足性」としばしば重ならない。例えば子供を何人産むかは、一方では個人の「幸福」を構成するものでありながら、他方ではポリスが規制すべきであるとされる。哲学的生活と政治的生活のどちらがよい生活か、はっきりした答えがないことも、このような曖昧さと深く関係している。
・このような「アウタルケイア」を現代の文脈でどう読み解くことができるだろうか。まずそのマクロな次元での絶えざる再編という点について。国家は一応独立した主権を有するものの、自己完結したシステムにあるわけではない。日本は多くの食糧や資源を海外に依存しているが、例えば食糧の確保については、自給率向上か/自由貿易推進かという単純な二者択一で判断できない。重要なのは安定した供給の確保にあり、自給率の向上も自由貿易の推進もその手段であって目的ではない。問題になっている電力なども、東と西での周波数の統一や、原発に替わるクリーンエネルギーによる供給向上に加えて、将来的にはヨーロッパと同じように国境を越えた電力の融通というアイデアも面白いのではないかと思う。自給か輸入かの二者択一ではなく、自給も輸入も行いつつそのバランスによる安定供給こそ公共性の高い領域で求められる、と私は思う。
・他方でミクロな次元での自己完結したシステムの拡充について。スイスのように核シェルターを増やせとは言わないが、今回のような大災害が生じたときにの避難先に、食糧・水・医薬品・電力・連絡手段(衛星電話など)などを確保した災害シェルターのようなものがあってもよいと思う。災害を生きのびても、ライフラインもロジスティクスも停止した状態でどれぐらいで援助が到達するかは分からない。今回のように自衛隊と米軍の支援は素晴らしいことだが、同時にその英雄的活躍を当初から過大に期待すること避けるべきだと思う。すでに被災地の復興プランも議論されているようだが、エコやらITやらの空疎なスローガンに踊らされるのではなく、ミクロな次元での災害対策を真摯に検討して欲しい。
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