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2011/04/03

「政治学」に何ができるか(0)

・未曾有の大災害に際して「政治学」に何ができるか。

国家のはじまりの一つが洪水を防ぐ公共事業にあったことを思い起こすならば、地震や津波という自然災害への対処は古くて新しい「政治」の課題である。そして「学」としての「政治-学」に意義があるならば、それは「政治」に従事する当事者には「見えない」ものを見えるようにすることにある、と私は思う。どこに問題があるのか、その問題をどのようなプロセスで解決できるのか、またその人材をどう選び集めるのかは必ずしも自明ではない。政治過程論、比較政治学、国際政治学、地方自治、政治史、そして政治哲学、いろんなアプローチも「見えない」政治問題を「見える」ようにすることで一致していると思う。

・だがこれには当然反論もある。問題はすでに「見えている」のではないのか。地震と津波によって壊滅した光景を誰もが目の当たりにしているし、放射線という普段は見えないものによって日常生活が脅かされている。重要なのは被災者支援と復興、原発問題の収束、国内外の風評被害、喪失した電力供給などにどう対処するかである(他にもいろいろあるが省略)。そのために必要なのは実効性のある政策の実現であり、そのための政党を超えた協力であり、実務を処理できる人材の配置であり、ボランティアの有効な活用であり、復興財源確保のための方策である。問題が「見えている」ときに必要なのは具体的政策のためのアイデアと情報であって、それによって「政治学」の中身も「仕分け」られることになるのではないのか。震災対策の中で行われる地方選挙の分析が空しいように、ハーバーマスやアーレントの政治哲学を論じることは空疎な衒学ではないのか。

・この大震災によって現在の「政治学」がどれほど変貌するかは分からない。「政治学」の広いフィールドで私が理解できるのは政治哲学や政治思想の一部であり、「社会科学」や「人文科学」という広い領域になるとさらに不確かなことしか分からない。だがそれでも政治哲学を論じることに意味が全く無くなるとは思えない。日本の敗戦が丸山眞男らの思想に決定的影響を与え、「全体主義」という20世紀の政治病理にアーレントが立ち向かったように、これからの政治哲学は大震災という圧倒的なリアルと多かれ少なかれ対峙し、その中で変質せざえるをえないのでないか、と私は思う。

・政治哲学が他の政治学と少し違うのは、リアルな事象を抽象化し「一歩引いて見る」ことでこれまでと違う知的風景を「見える」ようにすることにある。例えば「民主主義」や「公共性」という言葉で語られるものが人によって異なるばかりか、(政治家も学者も)中身のないレトリックとして用いる場合も度々ある。「民主主義」や「公共性」が単なる空疎な呪文とならないように、「一歩引いて」絶えず時々のリアルから考え直さねばならないのは今も昔も(震災以前も以後も)変わらない。以前と変わってくるのは、ちょっと思想家のスパイスを利かせた時事放談や、綺麗事を並べたお題目の自己満足は、無数の死者と瓦礫の山と放射能で汚染された故郷という圧倒的なリアルの前では、その空しさが際立ってくるのではないかということである。政治哲学が難しい言葉を使いながら、結局「みんな一つになろう」とか「みんな頑張ろう」としか言えないとしたら、そんな政治哲学ははっきり言って不要である、と私は思う。

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