ハンナ・アーレント『人間の条件』を読む(2)――《公共性》とは何か(上)
・『人間の条件』でアーレントが語る《公共性》(アーレントの言葉で言えば「公的領域」public realm)とは一体どのようなものなのでしょうか。「公的なもの」と「私的なもの」とを光と暗闇のアナロジーで対比する話が、歴史社会学的に説得力のないことは前回指摘しました。一般の政治哲学での「公共性」には、私益を公益に転換するプロセスや、あるいは「正義」や「共通善」の実現などがあるのですが、アーレントの《公共性》にはそうした議論がすっぽり抜け落ちてしまっています。この特異な《公共性》をわれわれの知る「公共性」――公共の福祉、公共施設、公教育、公共事業、公共放送 etc. ――とどのように結びつけられるのか、あるいはそもそも結びつけることが可能なのでしょうか。そうした問いかけもなくアーレントの思想が現代社会を救うとか、ネットワーク時代の新たな公共性を担うとかという話は、説得力がないと私は思います。
・まずアーレントが語る《公共性》とはどのようなものか確認してみましょう。アーレントは「公的領域」を(1)「現れの空間」と(2)「共通の世界」という二つの言葉で説明しています(第2章第7節、第5章28章)。
(1)第一の「公的」次元である「現れの空間」space of appearance とは、私とは異なる他者と経験を共有することで開かれるリアリティの場を意味しています。「現れの空間」という言葉は難しいですが、簡単に言うと、誰かと会って話をしたり、何かを一緒に見たり、聞いたりするフェイス・トゥ・フェイスの空間を指しています(第28節:権力と現れの空間)。直接他者と向き合って話をしたり、何かのイベントを共有することが人間生活のリアリティを形成しており、それは食う・寝るというヒトの動物的行動(=労働)や、孤独の中で何かを作ること(=仕事、制作)、また考え事をすること(=思考)とは違うのだ、ということです。この「現れの空間」は永続的なものではなく、人びとが対峙したり、集まって言葉を交わす限りにおいて存続する一時的なものであることが大きな特徴となっています。
(2)第二の「公的」次元は「世界」world あるいは「共通世界」common world という言葉で表現されています(ここでは「共通世界」で統一)。この「共通世界」とは一時的な集合を越えて、より広い空間・時間において人々に共有されるものを意味しています。つまり過去から伝わり未来に続く人間の歴史や文明に匹敵するものがアーレントの中で《公共性》として位置づけられているわけです。(1)「現れの空間」のリアリティはこの(2)「共通世界」に接続され、より多くの人々に共有されるリアリティとなるわけですが、それは自明なものでは決してなく「公的空間は、死すべき人間の一生を超えなくてはならない」(82頁)という信念において成立していると語られています。この「共通世界」は「仕事(制作)」によって創り出される人工的世界と、「活動」によって織りなされる「人間関係の網の目」の二層から構成されており、人工的な工作物、例えば一つのテーブルでさえもその周りに人びとが集うならば、それは人を結びつけ/分離することでリアリティを形成しているとアーレントは語っています。
・このような二層構造で説明されるアーレントの《公共性》の特徴はどのようなものでしょうか。例えばそれは、ハーバーマスの公共性(公共圏)とはどのように違うのでしょうか。論者によって説明の仕方はいろいろあると思いますが、私は一言で言えば「リアリティ」に大きくこだわっているのがアーレントの特徴だと思います。ハーバーマスが「公共性」(公共圏)という問題において民主主義社会における正統性の基礎付けを正面から問い直したのに対して、アーレントはむしろその基礎付けを可能とする地平、コミュニケーションの地平自体を「リアリティ」としての「公共性」において問題化した、と対比することができるでしょう。
・要するに「コミュニケーション」と言っても、単なる「情報伝達」は「政治」ではないとアーレントが見なしていた点は前回言及しました。言葉によるメッセージ・意見に「説得」されて何かアクションがあることが「政治」の成立なのですが、それは端から見ると不思議な現象のように見えるのです。つまり誰かが言葉によって他者に働きかけたとしても、時と場合によってうまくいったりいかなかったりするわけですし、さらに言えば、ある人が話す非常に説得力のある話を他の誰かが発しても空疎で信頼できないということも往々にしてあるわけです。一国の首相や大統領がスピーチをしても、時に何のリアリティも感じられないこと。その一方で身近な友人の一言が私のリアリティを大きく変えていくこと。このような「公共性」の病理と可能性をともに見据えている点にアーレントの議論の面白さがあるように思います。アーレントにしてもハーバーマスにしても、オープンに話し合えば良い「公共性」が実現されるなどという世迷い言を論じていたわけではありません。ただアーレントは「公共性」のリアリティの探究という点において、ハーバーマスとは異なる「公共性」の位相を探究したのだ、と私は思います。
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