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2011/06/19

ハンナ・アーレント『人間の条件』を読む(3)――《公共性》とは何か(下)

・ハンナ・アーレントの《公共性》が、「リアリティ」を問い直そうとした点、要するに単なる「情報」と言葉による「説得」とが異なることを問題とした点にこそ、その意義があることを前回確認しました。アーレントは「活動」の具体的な事例として「約束」と「許し」という言語行為を挙げていますが(第33-34節)、「私はあなたと約束します」「私はあなたを許します」という言葉がリアルなものとしてわれわれの耳に響くのは自明なものではありません。それにもかかわらず、われわれは誰かと「約束」し、ときに「許し」ている、そうした言語行為である政治を驚きと共に記述したのが『人間の条件』であると思います。

・アーレントが《公共性》を「リアリティ」という視点で問い直した背景に、当時のワイマール・ドイツの「公共性」の危機があったこと、それが今日のわれわれにも通じる問題であることは前回指摘しました。国会での論戦など茶番劇だというシニシズム、実は裏では与党も野党もつながっているのだという醒めた感覚の蔓延は、公的なものの「リアリティ」の喪失を意味していました。それゆえ「リアリティ」としての《公共性》へのアーレントのこだわりは、単にハイデガーの影響から「存在論」を政治の次元で展開した、という学説史的説明に還元できるものではありません。

・この点は『全体主義の起原』で大きな論点として取り上げられていることを想起しておく必要があるでしょう。ここでアーレントは、なぜドイツの民衆がナチスの馬鹿げたイデオロギーを信じるようになったのかを問題視しています。その分析に従うと「大衆は目に見える世界の現実を信ぜず、自分たちのコントロールの可能な経験を頼りとせず、自分の五感を信用していない。……大衆を動かしえるのは、彼らを包み込んでくれると約束する、勝手にこしらえ上げた統一的体系の首尾一貫性だけである」(『起原:第三巻』80頁)。ここでは共通の価値尺度が崩壊し、リアルを信じられなくなった存在としてドイツの大衆が描かれています。この「リアリティ」の喪失の裏側には大衆社会の「孤立」という問題が存在するのですが、アーレントはこれについて「根無し草」「故郷喪失」「アトム化」「孤独(見棄てられた状態)」など多様な言葉で表現しています。このように「リアリティ」が不透明なものとなる中で、人びとに受容されたのが、世界を全て「客観的」(疑似科学的)に説明するというナチスのイデオロギーだった、というのがアーレントの見立てです。こうした『全体主義の起原』での「リアリティ」の問題は、『人間の条件』にも継承されているわけです。

・しかしながら、重要なのは単にアーレントが「リアリティ」の問題を一貫して問い直したことだけにあるのではありません。むしろ問題となるのは、この『人間の条件』で描かれている公共空間、ホメロスの英雄やら古代ギリシア・ポリスやらの話が、ナチスの政治運動を否定するものではなく、むしろそれと強く結びつくという点にあります

・例えば『人間の条件』では、政治行為である「活動」の意義はもっぱら偉大さの基準によって判断されるものであって、「道徳的基準」とは別にあるのだと明言しています(第28節)。ここではトロイア戦争に従軍したアキレウス、あるいはアテナイで民衆を率いたペリクレスがその「偉大さ」を示した事例として度々取り上げられています。彼らの「偉大さ」とは、平和とか正義とか人間性云々という「道徳的基準」で測れるものではなく、その言葉と行いで自分が「最良の者であること」を示し、最終的に不死の存在となったこと(人びとの記憶に残る存在となったこと)にあるとされています。

・アーレントはここで引用するペリクレスの葬送演説について、それが厭戦気分のアテナイ市民に向けて戦争を鼓舞する内容であることに(おそらく意図的に)触れていないのですが、このようなアテナイ市民を前にしたペリクレスの姿は、ドイツ国民に戦争を訴えるアドルフ・ヒトラーと容易に重ねることができるように思います。人の心に感銘を与える名演説は、時と場合に応じて毒にも薬にもなるわけですが、そうした点にアーレントはほとんど無頓着です。この公共空間の枠組みで言えば、「戦争に反対する」集会も「戦争に賛成する」集会も同じであるということにならざるを得ません。

・このように、ナチズムを批判するはずのアーレントの思想がその重要な部分でナチスと結託してしまっているという危惧は、マーティン・ジェイ氏や川崎修氏などの論者により早くから指摘されていました(この点は川崎修『ハンナ・アレントの政治理論』付論「アレントを導入する」が大変参考になります)。こうした「危ない話」を取り除いて、熟議やフェミニズムやポストモダンからアーレントを論じる研究もありますが、私はこのマッチョな「危うさ」にこそアーレントの議論の面白さがあると思います。

大衆の国民化―ナチズムに至る政治シンボルと大衆文化 (パルマケイア叢書)大衆の国民化―ナチズムに至る政治シンボルと大衆文化 (パルマケイア叢書)
ゲオルゲ・L. モッセ George L. Mosse

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人は熟議や理性的討論で「説得」されることもありますが、多くの政治演説はそうしたお行儀の良いものではありません(ハーバーマスの公共圏では捉えられない労働者的公共性=大衆的公共性については、ジョージ・L・モッセ氏、佐藤卓己氏らの議論を参考)。冒頭でも言及したように「説得」は単なる「情報」の伝達とも何かの「論証」とも異なります(弁証法と弁論術との違い)。感情的な部分も含めてわれわれの「リアリティ」を突き動かす言葉の力こそ「説得」の成否があるわけです。その点で道徳的価値を括弧に入れて、アテナイのペリクレス、ドイツのヒトラー(そしてアメリカのオバマなど)を同じようなものとして眺める視点にこそ、アーレント《公共性》の独自性があるのではないか、と私は思います。そしてこうした公共空間で繰り広げられるものこそ、リベラル・デモクラシー以前にある「政治」の原初的な姿に他なりません。

・これらの文脈を抜きにして、「複数性」やら「現れ」やらのアーレントのジャーゴン(言い回し)を駆使して何か語ったとしても(「新しい公共」のアーレント的視点云々)、それはあまり意味がないように思います。重要なのはこの公共空間が遍在しており、またその性質が流動的であるということではないでしょうか。例えば、多様な市民運動や住民運動にアーレントの《公共性》を読み込むことは正しいとしても、何かに反対する運動も賛成する運動も同じ地平にあること(戦争、原発、etc.)、また平和な市民運動が危うい大衆運動になり得ることを了解しないと十分とは言えないでしょう。「リアリティ」としての《公共性》という点からすれば、そこには職業的地位や年齢・性別が関係ないこと、首相や大統領の演説などよりも身近な友人の言葉の方がわれわれのリアルを突き動かすかもしれないことは前回指摘しました。ですが正確に言えば、われわれを駆り立てる言葉とは、身近な友人のものに限りません。それは以前はノイズでしかなかった街頭演説だったり、あるいはネットワーク社会での見知らぬ誰かのつぶやきであるかもしれません。そうした豊穣な「公共性」の有り様を、危ういものへ絡め取られていく部分を含めて論じることのできる点にこそアーレントの《公共性》の意義があると思うのです。

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