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2014/02/17

映画「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)を鑑賞して(その2)

・「人間関係なんてどうでもいい、重要なのはこの映画のメッセージだ。悪の陳腐さこそ普遍的問題だ」という評価もあるかもしれない。確かに、分かりにくいアーレントの思想を「思考の人アーレント」対「無思考の人アイヒマン」という構図に落とし込むことは映画化する際に必要な作業であったかもしれないし、またその「悪の陳腐さ」が同時代アメリカでは理解されなかった悲劇(ソクラテスから続く哲学者の悲劇)とその中でも育まれた夫婦愛は「感動のドラマ」であったのかもしれない。そして映画の内容以前に、アーレント自体に関心が向けられるのは喜ばしいことなのかもしれない。しかしながら、それでも危惧すべきなのは、この映画で取り上げられたアーレントの「悪の陳腐さ」the banality of evil が、メディアで消費され使い古され「陳腐化」していくことである。
 
・先述のヤング=ブリューエルはそうした「悪の陳腐さ」の陳腐化を危惧し、一種の「決まり文句」で何かを理解したように語ってしまうことこそ、アーレント自身の思考のあり方を裏切ると批判していた。「アーレントが思考や言葉に求めたのは、新しい世界に適合していること、決まり文句を失効させうること、考えなしに受け入れられた思想を拒否しうること、紋切り型の分析を打ち破りうること、嘘や官僚的まやかしを暴露しうること、そして人びとがプロパガンダやイメージへの依存から脱するのを助けうることである」(ヤング=ブリューエル『なぜアーレントが重要なのか』12頁)。
なぜアーレントが重要なのか なぜアーレントが重要なのか
E・ヤング=ブルーエル 矢野 久美子

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・同様に「われわれの中のアイヒマン」という類の物言いも、アーレントが意図したものではなかった。「独裁体制の下での個人の責任」を読むと分かるが、アーレントは道徳で問われるべき問題と法で罪に問われる問題とは異なるという(よく知られた)区分に立ち、アイヒマン裁判で重要であったのは後者であることを強調した。その上で、全体主義で問われるべき道徳問題は、社会規範が「汝殺すべからず」から「汝殺すべし」に激変した際に、隣人たちが容易く「同調」してしまったという点であり、アーレントはこれを既存の道徳カテゴリーを超える難題であると見ていた。
 
・いわゆる進歩的文化人は政治で何か気に入らないことがあるとすぐに「全体主義の兆候だ」と語りたがるが、それは少なくともアーレントが思考し続けた「全体主義」の問題ではない。アーレントが論じる全体主義の思想的アクチュアリティは、現在はSFやアニメの中にあると私は思う(「全体主義のユートピア」についての過去の記事を参照)。アイヒマン裁判に代表される「責任と判断」の議論も、それ自体重要な考察ではあるものの、それを日本の戦争責任の話や原発事故の話題に結びつけるのは疑問に思う。「悪の陳腐さ」「無思考性」という言葉で日本の現実政治を説明することは一応可能であっても、それによって逆に、大きな枠組みや重要な細部が見落とされてしまうのではないだろうか
 
・繰り返しになるが、かつてはマルクスが占めていた(らしい)「偉大な理論」に、アーレントという記号を当てはめて論じることこそ、アーレント自身の思想的営みを裏切ることである。本作品が単に知的スノビズムを満たす一時期のブームで終わらないためには、この「悪の陳腐さ」や「無思考性」という言葉自体を疑いながら再考し続ける必要があると私は思う。

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